■検証40・日蓮一門に漆・金箔加工は不可能だった5

 

□美濃周人氏の塗漆・塗金箔説は「戒壇の大本尊」後世偽作の証拠ではない

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(『戒壇の大本尊』研究家・元日蓮正宗法華講員・美濃周人氏の見解)

身延町周辺には昔も今もウルシ工芸の伝統は全くない。しかもウルシに金箔を貼る技術は大変むずかしいもので、二十年修行しても、できない人には、できない。ウルシ加工をするにしても金箔加工をするにしても、大都会であった鎌倉まで持っていかなければならなかったはずである。日蓮たちは、どうやってその本尊を、身延の外へ運んだというのか。

(美濃周人氏の複数の著書より)

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美濃周人氏の塗漆・塗金箔説は、安永弁哲氏の身延山・楠木説と同じ誤謬を犯している。

それは美濃周人氏は、「身延町周辺には漆工芸の伝統がない」「漆加工・金箔加工が技術的にむずかしい」として、これを直ちに「日蓮一門に漆・金箔加工は不可能だった」と結論づけている。「身延町周辺には漆工芸の伝統がない」「漆加工・金箔加工が技術的にむずかしい」ことが、直ちに「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が後世の偽作である証拠というわけではない。この塗漆・塗金箔についても、最大のキーポイントであり、証拠は日蓮の「経済力」「財力」の問題なのである。

鎌倉時代の身延山周辺に漆加工・金箔加工の伝統がないとしても、しかし日蓮一門が、大きな経済力を持っていたとすれば、日蓮一門にも漆加工や金箔加工が可能であったし、楠木もどこからか買ってくることができた、という大事な点を美濃周人氏は見落としている。

又、板本尊に漆加工・金箔加工をするにしても、経済力を持っていれば、鎌倉や京都から職人を身延まで呼んで来ることは可能だったわけで、わざわざ重量200キロ以上にもなんなんとする巨大な板本尊を、鎌倉や京都まで持ち出す必要もない。したがって、日蓮一門が、大きな経済力さえ持っていれば、「戒壇の大本尊」なる板本尊は造立可能だったのである。

又、美濃周人氏は、「身延町周辺には漆工芸の伝統がない」としているが、日本の漆工・漆芸研究の第一人者である石川県輪島漆芸美術館長で漆器文化財科学研究所長である四柳嘉章氏に「アンチ日蓮正宗」で直接、取材したところ、中世の時代、日本全国各地で、かなり広範囲にわたって漆の生産が行われていたという。そうであるならば、身延山や身延山周辺においても、漆の生産・漆器の生産が行われていた可能性はあるということになり、「身延町周辺には漆工芸の伝統がない」という美濃周人氏の説は誤りである可能性が非常に高い。

いすせれにせよ、身延山中で暮らす日蓮には、漆加工・金箔加工を施すほどの経済力・財力がなかったということに全く言及せずに、「身延町周辺には漆工芸の伝統がない」「漆加工・金箔加工が技術的にむずかしい」として、これを直ちに「日蓮一門に漆・金箔加工は不可能だった」と結論づけている美濃周人氏の塗漆・塗金箔説は、「戒壇の大本尊」が後世の偽作である証拠とは言えないのである。つまり、身延山周辺に漆加工・金箔加工の伝統がなく、技術的にも大変むずかしいものであったということよりも、鎌倉時代の日蓮一門には、漆、金を入手できないばかりか、漆加工・金箔加工の職人を鎌倉から身延へ呼んで来る経済力がなかったことが、「『戒壇の大本尊』なる板本尊は後世の偽作である」という証拠となるのである。

虚構の大教団1
 

(美濃周人氏の著書「虚構の大教団」)

戒壇大本尊1大正4年由井本1
 

(大石寺「戒壇の大本尊」)