■検証270・平井信行寺の応永十九年板本尊は大石寺9世日有の代に彫刻造立された

 

□「小氷期」だった室町時代には栃木県栃木市平井信行寺周辺には自生の楠木はなかった

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(「アンチ日蓮正宗」に降伏宣言した龍神ひろしの妄言)

日蓮正宗に伝わる板御本尊のうち、戒壇の大御本尊を除いて最も古いものは、栃木県信行寺に伝わる8世日影上人造立の板御本尊である。この御本尊は、総本山に所蔵される弘安3年の大聖人御真筆御本尊を謹刻されたものであるが、このような化儀を日影上人が独創するとは考えられず、大石寺門流の伝統を踏まえ、造立された御本尊であることが明白である。したがって、板御本尊造立の始まりが日有上人からである、とする疑難は崩壊しているのである。

 (20130124日の楽天『自慰』ブログの日記)

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日蓮正宗・平井(栃木県栃木市)信行寺には、応永十九年(1412)十月十三日造立の日付が入っている、日蓮真筆の「紫宸殿本尊」を模写彫刻した板本尊が格蔵されていて、この板本尊には表の右下に「右願主薗部/日重弟子小輔/阿闍梨日経造立」と書いてあり、左下には「遺弟日影代/応永十九年太歳壬辰/十月十三日」と書かれている。

これを以て龍神ひろしは、「戒壇の大本尊」は日有の偽作ではないと言いたいようだが、そもそも平井信行寺の板本尊が「戒壇の大本尊」が大石寺9世日有以前から存在したとする説は、「日蓮と本尊の伝承」の著者・金原明彦氏が言い出した説であり、龍神ひろしの説は、金原明彦説のパクリであり、得意の猿まねである。さてこの金原明彦氏の説は全くの誤りであり、同時に、猿まねをしている龍神ひろしの説も自動的に誤りということになる。

この応永十九年(1412)十月十三日の日付入りの板本尊だが、大石寺59世堀日亨が書いた「堀ノート」によると、この本尊について

「本堂 楠板 宗祖御真筆 弘安三年庚申三月 宗祖在御判 応永十九年十月十三日」

と書いており、楠木の板で出来ているという。が、しかし、この板本尊は応永十九年(1412)の大石寺8世日影の代に造立された本尊とは、とても考えにくいのである。理由は以下の点である。

 

■第1に、この板本尊は「楠板」で出来ているということだが、栃木県は、自生の楠木が存在しない身延山よりも北方にある。したがって、栃木県にも自生の楠木は存在しない。地球温暖化が進行した現在でも栃木県には自生の楠木は存在せず、ましてや「小氷期」だった室町時代には、なおさら栃木県周辺には自生の楠木はなかったと考えられる。したがって、日蓮正宗・平井(栃木県栃木市)信行寺が単独で楠木の板本尊を造立するためには、自生の楠木が存在する遠方から楠木を調達し、さらに板本尊彫刻の仏師・職人も独自で調達してこなければならない。平井(栃木県栃木市)信行寺が単独で楠木・仏師・職人を調達して、板本尊を造立するなど、実質的に不可能であること。

 

 

■第2に、薗部衆・金井衆など、信行寺にいくら有力な信者がいたとしても、単独で楠木・仏師・職人を調達し、板本尊に黒漆塗りや金箔加工を施すほどの経済力・技術力もなく、そのような大がかりな板本尊造立が出来るほどの指導力もなかった。

室町時代の頃は、天皇・皇族、朝廷の公家・貴族、幕府の武家、仏教界の僧侶以外のほとんどの人は文字の読み書きができなかった。薗部衆・金井衆が仮に経済力を持っていたとしても、文字の読み書きができない人に、板本尊造立を指揮・監督出来る指導力がないことは明らかである。

■第3に、板本尊に金箔加工を施すには「金」が絶対に必要になるが、栃木県栃木市周辺には、金を産出する金山は存在せず、信行寺がそもそも「金」を入手することが不可能であること。

信行寺から一番近い金山は、福島県郡山市の高玉金山であるが、ここは1573(天正1)年に会津藩主芦名盛興によって開かれたもので、大石寺6世日時ないしは大石寺8世日影の代である1400年代には、まだ未発見で、金山そのものが存在していなかった。

■第4に、日蓮正宗大石寺にすら黒漆塗りに金箔加工の板本尊が存在しないのに、末寺が本山をさし置いて、こんな豪華絢爛な板本尊を造立することは、僧侶社会の常識・慣習からして、あり得ないこと。

以上のような理由から、日蓮正宗の末寺である信行寺が、独力で黒漆塗りに金箔加工を施した豪華絢爛な板本尊を造立することは不可能であると結論付けざるをえない。

したがって、この板本尊の「応永十九年太歳壬辰/十月十三日」との日付は、信行寺に格蔵されている板本尊そのものの造立日と位置づけることはできない。

それではこの板本尊は、どういう経緯で造立されたのか。

つまりこの信行寺に格蔵されている「紫宸殿本尊」を模写彫刻した板本尊は、最初に模写した当時は、板本尊ではなく、紙幅の掛軸式の本尊だったと考えられる。つまり最初は、紙幅の掛軸式の本尊だったものを、大石寺9世日有が法主に登座した後から、板に模写・彫刻して板本尊に造り直したということである。

したがって、この板本尊に書かれている「応永十九年太歳壬辰/十月十三日」という日付は、板本尊そのもの造立日ではなく、最初に「紫宸殿本尊」を模写して造立された紙幅の掛軸式本尊が造立された日と考えられるのである。

9世日有4(諸記録)
 

(能勢順道氏の著書『諸記録』に載っている大石寺9世日有の肖像画)

59世日亨2
 

(大石寺59世堀日亨)

金正日1
 

(金原明彦説の猿まねをする龍神ひろしのそっくりさん・金正日)