■検証20・百六箇抄が偽書である証拠・日蓮日興相承の大ウソ14

 

□「地頭の不法ならん時は我も住むまじき由」の「美作房御返事」は後世の偽作文書

 

身延離山や「百六箇抄」「二箇相承」「血脈相承」のことになると、必ずといっていいほど日蓮正宗や創価学会の信者が持ち出してくる文書が1284(弘安7)1018日に日興が書いたとする「美作房御返事」という文書である。日蓮正宗や創価学会の信者が、この文書を持ち出してくる目的は、身延離山や身延山久遠寺の重宝類を日興が持ち出したということを正統化するためである。(実際、日興は身延離山の時は、何も持ち出さなかったのだが)日蓮正宗や創価学会の信者が、重宝がっているのは「美作房御返事」の中にある次の一文である。

「地頭の不法ならん時は我も住むまじき由、御遺言には承り候えども不法の色も見えず候。」

----地頭の波木井実長が仏法に反したことをしたときは「私、日蓮の魂は身延山には住まないだろう」という日蓮の遺言を私はうかがっていたが、地頭には仏法に反したことをする様子もなかった------

 

つまり日蓮正宗や創価学会の信者は、日興が、波木井実長の謗法行為によって日蓮の遺言のとおりに身延を離山したと言いたいわけだが、この「美作房御返事」は後世の偽作文書である。

「美作房御返事」が後世の偽作文書である第一の証拠は、この文書の中の次の一文である。

「何事よりも身延沢の御墓の荒はて候て鹿かせきの蹄の親り懸らせ給候事、目も当てられぬ事に候」

-----何事よりも、身延山久遠寺の日蓮のお墓は荒れ果てていて、鹿のひづめの跡がついていて、目も当てられぬ状態であります。------

 

日興は、弘安七年(1284)当時、身延山久遠寺の日蓮の墓が荒れ果てていたというのである。しかし、歴史的事実を重ね合わせると、このころに、身延山久遠寺の日蓮の墓が目も当てられぬ状態になるまで荒れ果てていたなどということは、絶対にありえない。どこをどうつついても、そんなことは絶対にあり得ない話しなのである。そこで、1282(弘安5)10月の日昭、日朗、日興、日持の四老僧の身延山久遠寺帰山から「美作房御返事」が書かれたとされる1284(弘安7)10月までの約二年間の歴史的出来事を時系列で追っていくと次のようになる。

 

 

1284(弘安7)年当時の身延山久遠寺・日蓮正墓が荒れ果てていたということはあり得ない

 

1282(弘安5)1025日、日蓮の遺骨と日昭、日朗、日興、日持の四老僧が身延山久遠寺に帰山する

1283(弘安6)年正月に、四老僧に日頂、日向を加えた六老僧が日蓮の墓番を決めている。

1283(弘安6)年正月23日 身延山久遠寺で日蓮の「百箇日忌」法要が営まれる。

1283(弘安6)年正月末 日昭、日朗、日向、日頂、日持らが身延山久遠寺を離山する

1283(弘安6)2月初旬 日興も離山する

1283(弘安6)10月ころ、日興が再び弟子を連れて身延山久遠寺に戻る

1283(弘安6)1013日 身延山久遠寺で日蓮一周忌法要を営む

1284(弘安7)1013日 身延山久遠寺で日蓮三回忌法要を営む

1284(弘安7)1017日 日興が「美作房御返事」を書く??

 

歴史的事実と照合してみると、日興が「美作房御返事」を書いたのは、日興が再び身延山久遠寺に戻ってから一年後であり、「日蓮三回忌法要」の4日後ということになる。

身延山久遠寺の日興一門は、他の五老僧が身延に登山してこないとはいえ、日蓮の墓守だけは重点的に行っていたはずだから、1284(弘安7)10月に、日蓮の墓が荒れ果てていたなどということは、有りえようはずがない。しかも、それは「日蓮三回忌法要」の4日後のことである。

「日蓮三回忌法要」のためには、日蓮の墓の掃除は日蓮一門を挙げて行っていたはずで、日蓮の墓が荒れ果てたままの状態で、「日蓮三回忌法要」が行われるなど、絶対に有りえない話しだ。したがって、この「美作房御返事」なる文書は、後世の偽作文書である。

百六箇抄1
 

(1936(昭和11)堀日亨編纂『富士宗学要集』に載っている「百六箇抄」)

二箇相承3
 

(1970年刊『仏教哲学大辞典』に載っている『二箇相承』