■検証25・百六箇抄が偽書である証拠・日蓮日興相承の大ウソ19

 

□本当に「百六箇抄」があったら上野地頭が保田妙本寺日賢を「大石寺別当」と呼ぶはずがない

 

蓮蔵坊七十年紛争の真っ只中の1366(貞治5)に、上野郷の地頭・興津法西が日郷一門の法主・日伝に与えた書状—「興津法西より日伝への返付状」の内容は、注目に値する。

「興津法西より日伝への返付状」

「駿河国富士上方上野郷大石寺御堂坊地

先例に任せ地頭時綱寄進状、並に師匠日郷置文以下証文などにより、宮内郷阿闍梨日行の競望を止め、元の如く中納言阿闍梨日賢に返付申し候了んぬ。

仍て先例を守り勤行せらるべきの状件の如し。

貞治五年九月十七日 沙弥法西 判

大石寺別当中納言阿闍梨の所」

(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』9p39)

 

中納言阿闍梨日賢というのは、日郷一門(保田妙本寺・小泉久遠寺の一門)の保田妙本寺貫首・日伝の改名前の名前である。この文書の中で、上野郷の地頭・興津法西が日伝のことを「大石寺別当」と呼んでいることは、まことに注目すべきことである。 日蓮正宗が発行している「日蓮正宗・富士年表」によれば、当時の大石寺法主(別当)は、日伝ではなく、大石寺5世の宮内卿阿闍梨日行になっている。日行から日伝に大石寺法主が代替したとは書いていない。日伝は、大石寺の歴代法主の中に名前はない。日伝とは、当時、大石寺と対立・紛争をしていた日郷一門の小泉久遠寺・保田妙本寺5代貫首であって、歴代大石寺法主の中に名前はない。

しかし、この当時の文献では、大石寺のある上野郷の地頭・興津法西は、大石寺5世日行ではなく、日郷一門の保田妙本寺貫首・日伝を「大石寺別当」と呼んでいるのである。ということは、この当時、日蓮正宗が「法主」と認めていない人物が、「大石寺別当」(法主)職にあったということになる。つまりこれは、平たく言えば、当時の大石寺は、日郷一門の法主・日伝らによって占拠されていたということに他ならない。

蓮蔵坊七十年紛争は、日郷一門が蓮蔵坊を占拠したり、日道一門が占拠したり、そうかと思うと、日郷一門が大石寺の境内地の中に東御堂を建てて、日道一門に対抗したり、両者による壮絶な紛争になっていた。

蓮蔵坊は、1338(建武5)年、上野郷の地頭・南条時綱が日郷に寄進状を発行して日郷一門に帰したが、それでも日道一門と日郷一門の紛争は止まず、南条時綱の子・時長が地頭になって後、再び時長が日郷一門に証状を出した。

 

 

□「興津法西状」と呼ばれる書状は「百六箇抄」や「唯授一人の血脈相承」の存在を否定している

 

時長証状により蓮蔵坊を安堵(土地所有を公認されること)された日郷は、1345(康永4)年、上洛して京都守護職の案内を得て、念願の天奏を果たし、1353(正平8)年、61歳で死去した。

日郷門流の本山・保田妙本寺の開祖・日郷の後継貫首は、南条時綱の子・日伝である。日伝は幼名を牛王丸、出家して日賢と名乗り、後に日伝と改名した。

大石寺は1339(延元4)6月、大石寺4世日道から5世日行に代替わりした。

1359(正平14)年、日郷一門の日叡が中心になって大石寺に東御堂を建てた。

1363(正平18)年、日郷一門を支えてきた上野郷の地頭・南条時長が死去し、上野郷の地頭は、河東の代官・興津法西が兼務するようになった。

1365(正平20)年、かつての日興の坊舎であった白蓮坊(西大坊)を修復して住んでいた日道の後継法主・5世日行が、日郷一門の後継法主・日伝が安房国(千葉県)にいることを幸いに、地頭・興津法西に取り入り、日郷一門の僧侶たちは、蓮蔵坊から追放されて、5世日行一門が占拠するところとなった。 この事態に驚いた日郷一門の貫首・日伝は、駿河国の領主・今川家に訴えた。

今川家は、さっそく真偽のほどを正せと興津法西に厳命。これに驚いた興津法西が厳密に調査したところ、日伝側には確かに南条時綱、南条時長の寄進状や日郷の置き文などの証状があるが、大石寺5世日行側には何の証状もない。 そこでこれは明らかに日行側の我欲による陰謀と断定して、興津法西は日行を叱責するとともに、彼に与えた証状をとり上げて、日伝に詫び、蓮蔵坊は再び、日伝側に戻ることになった。1366(貞治5)の「興津法西状」とは、ちょうどその時の書状で、中納言阿闍梨日賢(保田妙本寺4代貫首)を「大石寺別当」と呼んでいるわけである。

しかしこの「興津法西状」と呼ばれるこの書状の存在も、大石寺が言う相伝書「百六箇抄」や「唯授一人の血脈相承」なるものの矛盾をさらけ出す結果になっている。地頭とは、鎌倉幕府・室町幕府が荘園・国衙領(公領)を管理支配するために設置した職で、在地御家人の中から選ばれ、荘園・公領の軍事・警察・徴税・行政をみて、直接、土地や百姓などを管理した、幕府の役人である。

その幕府の役人が、日伝のことを「大石寺別当」(法主)と呼んでいるという事は、日蓮正宗が言う「唯授一人の血脈相承」を受けていない人物を、幕府の役人が「大石寺別当」(法主)と呼んでいたという事になる。当時、この書状が大問題になったという形跡は全くない。もし本当に「百六箇抄」や「唯授一人の血脈相承」なるものが当時、大石寺門流に存在していたならば、これでは「法主の権威」は全く丸潰れである。現代でも文部科学省や文化庁の官僚が、日蓮正宗大石寺と対立関係にある正信会議長を「大石寺法主」と呼んだ文書を発行したら、大問題に発展するだろう。

つまりこの「興津法西状」と呼ばれるこの書状も、「百六箇抄」や「唯授一人の血脈相承」の存在を否定している事になる。これも大石寺9世日有以前の大石寺に「百六箇抄」や「唯授一人の血脈相承」が存在していなかった証拠なのである。

百六箇抄1
 

(1936(昭和11)堀日亨編纂『富士宗学要集』に載っている「百六箇抄」)