■検証80・大石寺9世日有が京都・妙顕寺から輸入した客殿・勅使門の配置2

 

□大石寺の客殿・勅使門から書院・庫裡・宝蔵の配置までそっくりな日蓮宗大本山・妙顕寺2

 

京都妙顕寺とは、1321(元亨元)年に、日蓮六老僧・日朗の弟子・龍華樹院日像によって開創された。日像は日蓮入滅の枕元で、京都開教と天皇への妙法奏上を遺命された。この時、日像は13才であった。日像は昼夜不断の勉学と苦行修行ののち、1294(永仁2)年に日蓮の遺命を果たすべくはじめて上洛。日像の辻説法はたちまちのうちに京都庶民の帰依を集め、一気に教線を拡大した。しかし日像の教線拡大は他宗派、中でも比叡山延暦寺の排斥を受け、三度にわたって布教禁止、京都追放に処せられるという苦難に遭遇した。しかし1321(元亨元)年に京都追放を赦され、ついに後醍醐天皇より京都御所の近辺に安居の地を寄進されて一宇を建立。これが京都妙顕寺の開創である。1334(建武元年)4月には、妙顕寺を勅願寺として法華宗号の綸旨を受ける。

妙顕寺2世・妙実は、1341(暦応4)年に妙顕寺を四条櫛笥に移転。1358(延文3)年に大干ばつが起きたとき、天皇の勅願によって僧侶300人を従えて桂川のほとりで祈雨の祈祷を行ったところ、たちまち数日の間に雨が降って、山野田畑が潤ったことから、その功績によって、後光厳天皇より日蓮に大菩薩号、日朗・日像に菩薩号が、そして妙顕寺には四海唱導の称号が、妙顕寺2世貫首・妙実には大覚の称号と大僧正の位が下賜された。これにより妙顕寺の寺勢は隆盛を極めた。

ところが日蓮宗の京都における教線拡大を心良く思わない比叡山延暦寺の僧兵・衆徒が妙顕寺に攻め入ってきて妙顕寺を焼き討ちにしてしまい、妙顕寺宗徒は若狭国(福井県)小浜に一時的に避難する。しかし1393年(明徳4年)、室町幕府三代将軍・足利義満の斡旋と寺領安堵により、京都・三条坊門堀川に妙顕寺を再建し、名前は鎌倉・妙本寺の名前を移して妙本寺と称した。

このように京都・妙顕寺という寺院は、日蓮宗、法華宗、富士門流等々の全日蓮門下においては、京都布教の先駆けであり、日蓮門下において唯一の勅願寺であり、歴史上はじめて天皇が日蓮に大菩薩号をはじめ菩薩号、四海唱導、大覚の称号等々を下賜せしめた特別な存在であった。

その妙顕寺と大石寺が、客殿と勅使門の配置が似ているだけではなく、庫裡、大玄関、大客殿、勅使門、さらにその裏手の宝物殿(宝蔵)、書院の配置までそっくりになっているというのは、まことに注目すべき事である。

1432(永享4)3月、日蓮正宗大石寺9世法主日有が、京都天奏で上洛した時、妙顕寺は比叡山延暦寺とは厳しい対立関係にあったものの、日蓮門下において唯一の勅願寺であり、歴史上はじめて天皇から日蓮に大菩薩号をはじめ菩薩号、四海唱導、大覚の称号等々を下賜されて、大隆盛期にあった。大石寺9世日有自身も、自ら勅願寺について、さりげなく触れている箇所がある。

「第五段本書云く 又云く国王の御寺を勅願寺と号するなり。将軍の寺をば祈願寺と号するなり」

(日有御物語聴聞抄/堀日亨編纂『富士宗学要集』第1p193)

 

 

□京都妙顕寺客殿・勅使門の配置をパクって大石寺に客殿・勅使門を建立した大石寺9世日有

 

京都仏教寺院の客殿や勅使門をパクった日有が、大石寺に客殿や勅使門を建てるに当たって、その配置をどこの寺院の配置を真似るだろうか。はやりそれは、日蓮門下において唯一の勅願寺であり、歴史上はじめて天皇が日蓮に大菩薩号をはじめ菩薩号、四海唱導、大覚の称号等々を下賜せしめた京都・妙顕寺の堂宇の配置なのではないか。

大石寺9世日有が京都天奏に成功して、仮に日有の申状が時の天皇の元に伝奏されたとしても、それくらいで大石寺が天皇の勅願寺になったりするなどということはあり得ない。あり得ないことだが、大石寺9世日有としては京都から大石寺に帰った後、大石寺の宗徒の前に京都伝奏の答えを出さなくてはならない。大石寺9世日有天奏の留守を預かっていた大石寺僧俗は、法主自ら天奏に行ったのだから、明日にでも勅使が大石寺に来るのでは、と首を長くしている。まさにそれが、大石寺に絶対に来るはずのない天皇からの勅使を迎えるためと称する勅使門と客殿である。

「法主自ら天奏に行ってきた。天皇御帰依の時には、大石寺に勅使がまみえる。我々は勅使をお迎えするときに備えて勅使門を建て、勅使をおもてなしするための客殿を建てておかなくてはならない」

まがりなりにも天皇の勅願寺になっている京都・妙顕寺に勅使が来ることはあっても、勅願寺でも祈願寺でもなく、公認宗派でも何でもなかった大石寺に、間違っても天皇の勅使がやってくるなどということは絶対にない。しかし大石寺9世日有としては、天奏の留守を預かっていた大石寺僧俗を納得させるために勅使門・客殿を建てる必要があったということだ。まさにそれは京都に実在していた日蓮宗で唯一の天皇の勅願寺になっていた妙顕寺のパクリということである。その証拠は、大石寺古来の庫裡・大坊・宝蔵・書院・客殿・勅使門の配置が、京都妙顕寺の庫裡・大坊・宝蔵・書院・客殿・勅使門の配置と、ほとんど同じに等しいということである。

妙顕寺22三門
 

(京都妙顕寺)

妙顕寺10勅使門

 

(京都妙顕寺勅使門・大客殿)

妙顕寺32境内古図2
 

(『日蓮宗本山めぐり』に載っている京都妙顕寺の伽藍配置)

昭和時代の大石寺境内図1
 

(昭和時代の大石寺境内図)

客殿21
 

(今の大石寺客殿・勅使門・ユーチューブの映像より)

9世日有4(諸記録)
 

(能勢順道氏の著書『諸記録』に載っている大石寺9世日有の肖像画)