□次期法主候補の要件は布教実績、年齢、健康、年功序列(僧階)、門閥(正系・傍系も含む)

 

201445日に「どーなる、注目を浴びる創価学会次期会長、日蓮正宗大石寺次期法主の人事の行方」を当ブログに書いたところ、この記事の月間アクセス数が450pvを超える等の大きな反響があった。大石寺法主は、血脈相承という宗教的儀式によって決まる。大石寺の血脈相承とは、法主が次期法主にしたい僧を指名して、法主から法主に相承する儀式を行って新法主が誕生する。血脈相承の元ネタは「二箇相承」「日興跡条条事」「百六箇抄」等の大石寺9世日有が偽作したものである。これだけを見ると、あたかも教学的に優れた人物に相承するかのように見えてしまうのだが、これはそうではなく、何らかの理由で次期法主にしたい人物を決めていて、法主がその人物に相承するということである。それではどういう人物に相承したいのか、ということになるが、まず布教実績。そして年齢、健康、年功序列(僧階)、門閥(正系・傍系も含む)である。では戦後の日蓮正宗大石寺法主の交代劇の実例を見てみよう。

1956(昭和31)118日に大石寺で開かれた重役会議の席上、大石寺64世水谷日昇法主が法主隠退を発表。理由は老体になって宗門の近代化、発展に適応できないことを挙げたが、時はまさに創価学会の「折伏大進撃」の時代。日蓮正宗・創価学会は信徒激増期で、創価学会による奉安殿寄進や末寺寄進がつづいていた。その戸田城聖や創価学会を訓育・育成してきたのが常泉寺住職・堀米日淳氏と常在寺住職・細井精道(日達)庶務部長。これに追随していたのが法道院主管・早瀬道応(日慈)教学部長。堀米日淳・細井精道(日達)の二人が実質的に大石寺64世水谷日昇法主の時代に宗務院を牛耳っていた。「老体になって宗門の近代化、発展に適応できない」とは、裏を返せば「創価学会の折伏に適応できる若手の僧に法主を譲りたい」との意志表示に他ならない。即座に「大日蓮」号外が出て、管長候補者選挙が発令された旨の院達が出た。管長候補有資格者は能化僧の中島日彰、大石日進、高野日深、堀米日淳の4氏。ところが中島日彰、大石日進、高野日深の3氏は全員辞退し、堀米日淳一人だけが残った。宗門の近代化・発展に適応、つまり創価学会の急激な折伏・教線拡大に適応できる能化僧となれば、実質的に創価学会を牧口時代から訓育してきた堀米日淳氏しかいないということになる。そこで1956(昭和31)28日に参議会が大石寺で開かれ、堀米日淳氏の管長就任、大僧正昇進が批准された。翌39日に堀米日淳氏は学頭に補任。330日に大石寺で相承の儀が行われた。

大石寺65世堀米日淳法主は在職3年で病の床に伏した。1959(昭和34)1114日、東京・大田区池上の自宅で病気療養をしていた堀米日淳法主は、宗務総監の細井精道(日達)氏を呼び寄せ、次期法主として相承することを発表。1116日未明、堀米日淳法主の自宅にて相承の儀が執り行われ、翌17日、堀米日淳法主は死去した。堀米日淳法主の代も創価学会「折伏大進撃」はつづいており、後継法主としては細井精道(日達)総監以外になかったということだろう。

 

 

□昭和・平成に布教実績で頭角を現した大石寺67世阿部日顕法主、大石寺68世早瀬日如法主

 

堀米日淳法主の後を継いだ大石寺66世細井日達法主は在職20年に及んだが、細井日達法主の代は、大客殿建立、大坊・六壺・総坊・大化城建立、正本堂建立、全国末寺寄進、750万世帯達成とまさに池田大作・創価学会の全盛時代。細井日達法主在職中に後継候補として頭角を顕したのが早瀬日慈総監と阿部信雄教学部長。この二人がなぜ頭角を現したのかというと、二人とも池田大作・創価学会との親密な関係だったこともさることながら、早瀬日慈総監は法道院主管として全国随一の法華講法道院支部を育成し、早瀬義寛(日如・後の大石寺68)、早瀬義雄(後の宗会議長)をはじめ多くの徒弟(門下の所化僧)を育成した。阿部信雄教学部長は当初は東京向島の本行寺住職として、法道院支部に負けず劣らずの法華講本行寺支部を育成。さらに八木信宝(日照・後の総監)、阿部信彰(後の庶務部長・布教部長)をはじめ、多くの徒弟を育成。さらに教学部長、平安寺住職に転身してからも、宗門僧育成に尽力した。早瀬日慈総監、阿部信雄教学部長の二人を細井日達法主の後継候補に押し上げたのは、宗門僧、法華講の布教実績であった。

細井日達法主の後継候補として能化僧がいたが、柿沼日明、渡辺日容、佐藤日成、高野日深、漆畑日広といった能化僧は細井日達法主の晩年に次々と死去。大石寺66世細井日達法主が死去した1979(昭和54)7月における能化僧は、元総監の早瀬日慈、保田妙本寺貫首・鎌倉日桜、日向定善寺貫首・小原日悦の三人だけ。細井日達法主死去直後の大石寺での重役会議によばれたのは阿部信雄(日顕)総監、椎名法英(日澄)重役と元総監の早瀬日慈氏の三人だけ。この重役会議で阿部信雄総監が大石寺67世日顕法主として登座することが決定するが、この席に鎌倉日桜、小原日悦の二人が呼ばれなかったのは、いわゆる日郷門流という「他門流」から日蓮正宗に帰伏した「外様」出身の能化僧だからである。

大石寺67世日顕法主の代に後継候補として頭角を現したのが、藤本日潤総監、吉田日勇重役、大村寿顕(日統)教学部長、早瀬義寛(日如)庶務部長、尾林広徳(日至)海外部長、八木信宝(日照)大石寺主任理事らだったが、藤本総監、吉田重役は年齢、大村教学部長、尾林海外部長は健康がネックになり、八木主任理事は住職を勤める大石寺妙泉坊は信徒ゼロの坊だった。最終的に1990年代においても抜群の布教を行った法華講法道院支部の指導教師・早瀬義寛(日如)庶務部長が大石寺68世日如法主として登座した。

こうした過去の事例を見ていくと、次期法主になる最大の決め手は布教実績である。大石寺は上古の昔から「戒壇建立」「広宣流布達成」という極めて野心的な教義を持っており、実質的に布教が禁じられていた江戸時代においても、僧侶や信徒の折伏・布教が金沢法難、尾張法難、仙台法難、京都要法寺の寛政法難、讃岐本門寺の讃岐法難という事件を起こしている。明治維新以降は、僧侶や信徒の布教が元になって新寺院を建立あるいは廃寺になった寺院を復興。日蓮正宗が金沢に妙喜寺を建立した1879年から太平洋戦争開戦の1941年までの63年間で76ヶ寺の寺院を建立してきている。これはあまり知られていないことだが、明治、大正、昭和初期にかけての63年間で76ヶ寺の新寺院建立というペースは、かなりのハイペースによる布教といえよう。

68世日如D1
 

(後継者が注目される大石寺68世日如・ユーチューブの映像より)