■検証28・百六箇抄が日蓮真筆・日興真蹟ではない無関係の偽書である証拠4

 

□日蓮・日興・日目は生涯、天奏をしていない

 

「百六箇抄」の中にある「史実に反する文」は、他にもある。□「百六箇抄」の文中に

「又玉野卿公日目は新所建立と云ひ・予天奏の代として而も二度流罪・三度の高名是れあり」

とあるが、日蓮在世の時代に、日目は新寺院建立もしていなければ、日蓮の代理で天奏(京都の天皇に諫暁をすること)をしたという事実もない。

歴史的事実として、日蓮門下で最初に京都に上ったのは1294(永仁2)の日像が最初である。

日目は1333(正慶2)年、天奏に行く途中で、美濃国垂井で急死しているが、これが日興門流にとって、最初の天奏の旅であり、日目にとっては、最初で、最期の天奏の旅だった。しかし日目は結局のところ、天奏を果たすことができなかった。日蓮も日興も日目も、その生涯において、天奏(てんそう)、つまり京都に上って天皇に申状を言上したという事実は全くない。

日蓮も日興も日目も、その生涯において、天奏(てんそう)、つまり京都に上って天皇に申状を言上したという事実は全くない。当然のことながら、日蓮がまだ生きていた時代に、日蓮の代理として天奏をしたという事実もなければ、時の天皇から「御下文」を下賜されたという事実もない。

日蓮正宗が出版している富士年表によると1281(弘安4)年、日興が「園城寺申状」を日蓮の代理として天奏したと記述しており、これを「初度天奏」と位置づけている。しかし、この日興が「園城寺申状」を日蓮の代理として天奏したなどという事実は全くない。あるいは日蓮正宗では、「日興跡条条事」第二条の文

「一、日興が身に充て給はる所の弘安二年の大御本尊、弘安五年の御下文、日目に之を授与する 」 (日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』8p17)

この中に「弘安五年の御下文」という記述があることを証拠として1281(弘安4)年、日興が「園城寺申状」を日蓮の代理として天奏したと反論する。「御下文」(おくた゛しぶみ)とは、時の天皇から下される詔書、勅書の類の文書である。その「御下文を日興が日目に授与する」という文だ。

ところが、日蓮も日興も日目も、その生涯において、天奏(てんそう)、つまり京都に上って天皇に面談し、申状を言上したという事実は全くない。当然のことながら、時の天皇から「御下文」を下賜されたという事実もない。「日興跡条条事」という文書そのものが、大石寺9世日有が偽作した全くのニセ文書であり、日興「初度天奏」の証拠でも何でもないものである。

 

 

□日蓮から京都開教の附属を受けたのは日興でも日目でもなく龍華院日像である

 

歴史的事実として、日蓮門下で最初に京都に上って日蓮の教えを開教したのは1294(永仁2)の肥後阿闍梨龍華院日像が最初である。 龍華院日像とは六老僧・日朗の異母弟にあたり、建治元年(1275)2月、7才のとき、鎌倉・比企が谷に登って日朗の弟子となる。

弘安五年(1282)14才の時、日蓮入滅の枕元で京都開教の附属を受けた。永仁二年(1294)2月、日蓮の霊跡を拝するために、安房、伊豆、身延山、越後、佐渡を巡礼し、後に越中、能登、加賀を遊歴してのち、4月に京都に入って、辻説法をはじめとして諸宗派を折伏。これにより1307年(徳治2年)から1321年(元亨元年)までの間に3度京都から追放する院宣を受けた。

1321年(元亨元年)に追放を許されて、後醍醐天皇より寺領を受け、ここに妙顕寺を建立。

元徳三年(1331)7月、日像は天奏を行い、1334(建武元年)4月には、後醍醐天皇より帝都弘通公許・妙顕寺を勅願寺として法華宗号の綸旨を受ける。これが後の日蓮門下唯一の勅願寺・妙顕寺(日蓮宗七大本山)の基礎と成る。勅願寺(ちょくがんじ)とは、時の天皇・上皇の発願により、国家鎮護・皇室繁栄などを祈願して創建された祈願寺のことだが、実際には、寺が創建されてから、勅許によって「勅願寺になった」寺のほうが数多い。勅願寺は全国で34ヶ寺あるが、天下の三戒壇の他は、天台宗、真言宗、臨済宗が大半で、日蓮宗で勅願寺になっいているのは唯一、妙顕寺だけである。妙顕寺2世・妙実は、1341(暦応4)年に妙顕寺を四条櫛笥に移転。

1358(延文3)年に大干ばつが起きたとき、天皇の勅願によって僧侶300人を従えて桂川のほとりで祈雨の祈祷を行ったところ、たちまち数日の間に雨が降って、山野田畑が潤ったことから、その功績によって、後光厳天皇より日蓮に大菩薩号、日朗・日像に菩薩号が、そして妙顕寺には四海唱導の称号が、妙顕寺2世貫首・妙実には大覚の称号と大僧正の位が下賜された。これにより妙顕寺の寺勢は隆盛を極めた。ところが日蓮宗の京都における教線拡大を心良く思わない比叡山延暦寺の僧兵・衆徒が妙顕寺に攻め入ってきて妙顕寺を焼き討ちにしてしまい、妙顕寺宗徒は若狭国(福井県)小浜に一時的に避難する。しかし1393年(明徳4年)、室町幕府三代将軍・足利義満の斡旋と寺領安堵により、京都・三条坊門堀川に妙顕寺を再建し、名前は鎌倉・妙本寺の名前を移して妙本寺と称した。このように京都・妙顕寺という寺院は、日蓮宗、法華宗、富士門流等々の全日蓮門下においては、京都布教の先駆けであり、日蓮門下において唯一の勅願寺であり、歴史上はじめて天皇が日蓮に大菩薩号をはじめ菩薩号、四海唱導、大覚の称号等々を下賜せしめた特別な存在であった。よって日蓮門下で歴史上始めて天皇・朝廷から綸旨・下文を下賜されたのは、日像門流なのであって、日興門流ではない。これは歴史の史実である。

日目は1333(正慶2)年、天奏に行く途中で、美濃国垂井で急死しているが、これが日興門流にとって、最初の天奏の旅であり、日目にとっては、最初で、最期の天奏の旅だった。しかし日目は結局のところ、天奏を果たすことができなかった。歴史的事実として、日蓮門下で最初に京都に上ったのは1294(永仁2)の日像が最初である。 日目は1333(正慶2)年、天奏に行く途中で、美濃国垂井で急死しているが、これが日興門流にとって、最初の天奏の旅であり、日目にとっては、最初で、最期の天奏の旅だった。しかし日目は結局のところ、天奏を果たすことができなかった。だから、歴史的事実に反している文がある「百六箇抄」はニセ文書である、ということになる。

百六箇抄1
 

(1936(昭和11)堀日亨編纂『富士宗学要集』に載っている「百六箇抄」)