■検証35・百六箇抄が偽書である証拠・日蓮本仏義の大ウソ5

 

□日蓮は文永11年「万年救護の大本尊」の脇書で自ら上行菩薩の再誕であると宣言している

 

日蓮は、文永十一年十二月 日に図顕した「万年救護の大本尊」の讃文に

「大覚世尊御入滅後 経歴二千二百二十余年 雖尓月漢 日三カ国之 間未有此 大本尊 或知不弘之 或不知之 我慈父 以仏智 隠留之 為末代残之 後五百歳之時 上行菩薩出現於世 始弘宣之」----「大覚世尊御入後二千二百二十余年を経歴す。雖と尓も月漢日三カ国之間、未だ此大本尊有まさず。 或は知って之を弘めず、或は之を知らず。我が慈父、仏智を以て之を隠し留め、末代の為に之を残す。後五百歳之時、上行菩薩出現世に於いて 始めて之を弘宣す」

と書き記しており、これによれば日蓮は自らが「上行菩薩」であると宣言しており、久遠元初の自受用身如来だとも、久遠元初の本仏だとも末法の本仏だとも言っていない。

そしてさらに日蓮は弘安五年四月に執筆した「三大秘法抄」では、

「此の三大秘法は二千余年の当初地涌千界の上首として日蓮慥かに教主大覚世尊より口決相承せしなり、今日蓮が所行は霊鷲山の稟承に芥爾計りの相違なき色も替らぬ寿量品の事の三大事なり」(三大秘法抄・御書全集p1595)

と言って、日蓮はあくまでも上行菩薩として霊鷲山にて教主釈尊より三大秘法を稟承・相承したと言っている。もし「此れは魂魄佐土の国にいたりて」の「魂魄」を、久遠元初の本仏としての「魂魄」ならば、日蓮は「三大秘法抄」で「此の三大秘法は二千余年の当初地涌千界の上首として日蓮慥かに教主大覚世尊より口決相承せしなり」などと「上行菩薩」の立場で書かなかったはずである。あるいは文永十一年十二月 日に図顕した「万年救護の大本尊」の讃文に「後五百歳之時、上行菩薩出現し世に於いて 始めて之を弘宣す」とは書かなかったはずである。「後五百歳之時、久遠元初の自受用身如来出現し世に於いて 始めて之を弘宣す」と書いたはずである。

したがって文永十一年十二月 日に図顕した「万年救護の大本尊」の讃文は、「日蓮正宗系」の「日蓮本仏義」を根本から否定する決定的証拠である。では文永十一年十二月 日に図顕した「万年救護の大本尊」とは、いかなる本尊なのか。

この本尊を格蔵しているのは、富士門流八本山のひとつである中谷山妙本寺。通称名を「保田妙本寺」という。1957(昭和32)年、保田妙本寺と末寺4ヶ寺(顕徳寺・本乗寺・本顕寺・遠本寺)が日蓮正宗に合同する。1995(平成7)5月、保田妙本寺が再び日蓮正宗から離脱。

万年救護の大本尊とは、文永1112月に図顕された大曼荼羅、立正安国会『御本尊集』の16番本尊の通称名。この本尊の特長は、他に類例がない長文の讃文があること。他の日蓮真筆本尊の讃文ではすべて「大曼荼羅」「大曼陀羅」となっているのに対して、ただこの本尊の讃文のみ、「大本尊」となっている。この讃文の中で、日蓮自身が、日蓮の本地が上行菩薩であることを明確に示している。さらに曼陀羅の相の中で、天照大神・八幡大菩薩の本地も示しているとされる。

 

 

これにより、山川智応氏はこの本尊を「本因妙・本国土妙御顕発の御本尊」と呼んでいる。

日蓮がこれだけの長文の讃文を書き記した「大本尊」であるにもかかわらず、四大天王が記されておらず、阿闍世王、提婆達多も列座していない、という特長もある。富士門流では、この本尊は、日蓮→日興→日目→日郷→保田歴代貫首に伝承されてきているとしており、日蓮が日興に授与した本尊であるとしている。日蓮正宗においても、この見解は同じで、富士学林発刊の「日蓮正宗富士年表」で「弘安二年 日興に文永1112月の本尊(万年救護本尊)を賜う」(富士年表p45)

と記している。が、この本尊に授与書は全く記されていない。

万年救護本尊を模写彫刻した板本尊は、日蓮正宗大石寺の大講堂、東京・池袋の日蓮正宗常在寺、身延山久遠寺奥院、西山本門寺にも格蔵されている。

万年救護大本尊は、一天四海皆帰妙法を達成するまでは公表すべきではないとされ、日郷門下により密かに保田妙本寺に恪護されてきた。しかし江戸時代、日濃がこの万年救護本尊をはじめとする保田妙本寺の重宝を質入れするという事件があり、それを取り返すために、保田妙本寺が大量の万年救護本尊の形木の印刷本尊と万年救護本尊を原寸大の板に彫刻した板本尊を販売したものが、これらの模刻本尊であると、されている。日濃とは、1660(万治3)年に妙本寺に住職として晋山し、1682(天和2)年に死去している人物。1660(万治3)年に住職として晋山したということは、保田妙本寺・小泉久遠寺19代前司阿闍梨日応の後に住職になった人物ではないかと思われる。質入れされた重宝は、「重宝日蓮真筆之漫荼羅六幅並消息十八枚」とされる。この事件は、西山本門寺を巻き込むなど、問題が多方面に波及し、最終的には、江戸幕府・寺社奉行に裁決が持ち込まれた。日濃による山林伐採、寺僧末寺檀那追放等もあり、妙本寺が大混乱に陥った。

この日濃事件の大混乱で、妙本寺の「御宝物箱」にあったという多くの中世以来の曼荼羅本尊、古文書、典籍類が失われた可能性が極めて高いと、千葉大学・大学院教授・佐藤博信氏が著書「安房妙本寺日我一代記」の中で述べている。本阿弥家を経て昭和十年に加治さき子氏によって身延山久遠寺に奉納された弘安三年卯月日の日蓮曼荼羅本尊なども、この時代に妙本寺から流出したと見られている。保田妙本寺の長い歴史の中で、重宝・史料の流出の危機は、わかっているだけでも、中世の永正年代、天文年代、そして江戸時代に入っての、日濃質入れ事件と、三度もある。永正、天文年代の危機は、戦国時代の戦乱によるものだったが、この一連の事件は、住職・日濃個人の私利私欲による犯罪行為によるものであった。この結果、日濃は「重悪の日濃」「重罪日濃」と呼ばれ、中世の時代の日是と同様、保田妙本寺の歴代住職から除歴された。

なお、「万年救護の大本尊」は、保田妙本寺歴代住職を中心とするさまざまな快復運動等により、保田妙本寺22代住職・日達の代になって、ようやく保田妙本寺に戻っている。それ以来、「万年救護の大本尊」の管理は厳重を極め、現在、この「万年救護の大本尊」は、毎年十月十五日に妙本寺で行われる「虫払い会」の時のみに、奉掲されている。

本尊016
 

(保田妙本寺格蔵・万年救護の大本尊)