■検証88・大石寺9世日有が京都から輸入した堂宇・土蔵(宝蔵)

 

□大石寺9世日有が京都の土蔵造りを大石寺に輸入して完成させた堂宇・大石寺宝蔵1

 

大石寺の客殿の後方の杉木立に囲まれた小高い丘の上に、御宝蔵と呼ばれる土蔵造りの堂宇がある。宝蔵とは、辞書(デジタル大辞泉)によれば

「1 貴重な物品として大切に納めておくこと。2 宝物を納めておく蔵。宝庫。

3 経典を納めておく建物。経蔵。4 仏語。仏の教え。」

となっている。元々は経典の仏語ということだが、これから転じて、貴重な物品、宝物を納めておく蔵という意味で使われるようになったものである。

大石寺の宝蔵は、日蓮、日興、日目をはじめとする歴代法主の大漫荼羅本尊、日蓮の遺文(御書)である諫暁八幡抄、南条殿御返事といった古文書等々の大石寺の重宝類が納められており、これらの重宝は、毎年4月に行われている霊宝虫払い大法会で虫損を防ぐ風入れが行われ、代表登山(特別登山)で大石寺に参詣した信者の前で披露される。

又、現在、奉安堂に祀られている「戒壇の大本尊」なる板本尊は、日蓮正宗大石寺9世法主日有の偽作から1955(昭和30)年の奉安殿落慶まで、この宝蔵の暗がりの中に格蔵されていたことでも有名だ。この大石寺宝蔵は、日蓮正宗の公式見解でも大石寺9世日有の創建であるとしている。

この後の検証で詳しく述べるが、宝蔵とは大石寺9世日有が「戒壇の大本尊」なる板本尊を偽作し、これを末代まで長期格蔵するために造立した堂宇である。この宝蔵の原型は土蔵だが、この土蔵も大石寺9世日有が京都から輸入したものである。日本の土蔵の発祥もやはり京都であり、これは土蔵の歴史を紐解いていくと、解明されることである。

「世田谷の土蔵・旧秋山家土蔵保存の記録」(19933月・世田谷区教育委員会編)によれば

「土蔵を記録する資料としては、鎌倉時代初期の延慶2(1309)に描かれた『春日権現験記絵巻』がある。そのうち第14巻には火災後の京都市中の風景を描写したものがあり、白漆喰で仕上げられた土蔵が焼け残った姿で描かれている。既に切妻造りの塗り屋根形式を持ち、置屋根が載っていたと思われることから、ほぼ現在の土蔵造りに近い形式が成立していたことが推定できる。

土蔵の歴史は、上図から推定されるように火災から貴重な穀物や家財を守る耐火建築物として変遷してきた。土蔵造りと他の倉の最も大きな違いは、構造である柱・梁を不燃材である土で覆ってしまう塗屋造りと、柱を外部に出す真壁造りの違いにある。しかし本報告からも理解頂けるように、土蔵造りは工事日数が必要であり、財政的負担が非常に大きな欠点となる。そのため、どの家にも土蔵を建てることができたわけではない。また、土蔵の外部を仕上げる漆喰は、高価品として幕府から使用の制限なども加えられたため、特定の階層のみの建物として定着した。

 

 

14世紀・鎌倉時代の京都で火災で焼け残った記録が残る白漆喰で仕上げられた土蔵

 

土蔵造り、つまり耐火構造の建物は、農村にも増して、町屋や商家など都市内の建物密集地に多く建設されている。歴史は新しいが、蔵造りの街として有名な川越なども、過去の大火災を通じて土蔵造りの街に変化していくのである。」

(「世田谷の土蔵・旧秋山家土蔵保存の記録」19933月・世田谷区教育委員会編p138)

「火災に弱い日本の家屋構造からは、土蔵の持つ意味は大きく、以降、様々な形式に変化しながらも、今日まで存続してきた」

(「世田谷の土蔵・旧秋山家土蔵保存の記録」19933月・世田谷区教育委員会編p139)

とある。

富山県伝統的建築技術調査報告書「富山の土蔵」(20033月・富山県教育委員会編)によれば、

「土蔵が文献上に姿をあらわすのは中世になるようで、延慶2(1309)の春日権現験記絵巻に出てくるとされる。…室町時代に入ると防火、防犯の観点から畿内の豪商が土蔵を作りはじめ、江戸時代には江戸や大坂等においても、経済的に裕福な商人たちを中心に、土蔵造りの店蔵なども含め瞬く間に普及した。こうした風潮に対して、江戸幕府は一時、贅沢を諫めるため土蔵造りを制限する令を公布するが、たび重なる大火に業を煮やし、享保5(1720)には逆に瓦葺きと耐火構造の土蔵造りを推奨するようになる。地方の各藩においても、追随する布令が出されていることが知られる。こうしたことにより、土蔵の築造技術や、技術者の発展と普及が進み、一般農家や町屋においても土蔵の建造が普及しはじめたと考えられる」

(富山県伝統的建築技術調査報告書「富山の土蔵」富山県教育委員会編p17)

脇田修・脇田晴子著「物語・京都の歴史・花の都二千年」によれば、室町時代の京都には、土倉が400軒弱あったという。土倉とは、元々は1 穀物などを保存するために地下に穴を掘ってつくった倉。あなぐら。2 土で塗った倉。土蔵(国語辞書)のことで、これが転じて、中世の金融業者のことを指している。現在の質屋にあたるもので、これは質物保管のための土蔵を建てていたのでこの名がある。土倉は、鎌倉時代より発生し、室町時代に京都・奈良で発展、室町幕府は土倉役を課して大きな財源としたのだが、室町時代の京都では、土蔵を持つ金融業者・土倉が大繁盛していたことがわかる。まさに大石寺9世日有が、京都天奏のために上洛したその時代である。

川越蔵街1
 

(埼玉県川越市の蔵造り)

山町筋8

 

(富山県高岡市の土蔵造り)

蔵造資料館2
 

(埼玉県川越市の蔵造り資料館)

土蔵造り資料館2
 

(富山県高岡市の土蔵造り資料館)