■検証90・大石寺9世日有が京都・日隆門流からパクった教義・本迹勝劣1

 

□日陣門流・日隆門流の本迹勝劣義をパクって本迹勝劣・種脱勝劣を説いた大石寺9世日有

 

大石寺9世日有の京都天奏により、京都の仏教寺院の影響もしくは京都仏教寺院から輸入したもの、パクリと思われるものが、寺位牌や秘仏、勅使門、六万坊思想、客殿、客殿・勅使門の伽藍配置、血脈相承、土蔵の外にも存在している。それが法華宗陣門流の本迹勝劣・寿量一品正意であり、京都本能寺・日隆門流の「法華経八品正意論」であり、これをパクった大石寺9世日有は、本迹勝劣、種脱勝劣として「日蓮本仏義」を偽作した。日蓮本仏義とは、大石寺9世日有の日有化儀抄だけで成り立っているのではなく、「百六箇抄」「本因妙抄」「産湯相承事」「御義口伝」と、一体化・ワンセットになって成立している、という重要なポイントがある。

つまり「日蓮本仏義」を偽作した者と「百六箇抄」「本因妙抄」「産湯相承事」「御義口伝」を偽作した者は、同一人。大石寺9世日有である。

日蓮本仏義は、五重相対すなわち内外勝劣、大小勝劣、権実勝劣、本迹勝劣、種脱勝劣が基本教学になっているが、本迹勝劣は、まさに日陣門流・日隆門流の本迹勝劣のパクリであり、種脱相対は、日陣門流の「寿量一品正意」、日隆門流の「法華経八品正意論」のパクリから、アレンジしたものである。そこで、日陣門流の本迹法体勝劣・寿量一品正意、日隆門流の本迹勝劣、法華経八品正意論と大石寺の「日蓮本仏義」の関連性についてだが、では大石寺の「本迹勝劣」がなぜ日陣門流・日隆門流の「本迹勝劣」のパクリだと言えるのか。

歴史上はじめて本迹勝劣を説いたのは、法華宗陣門流の開祖・日陣が応永3(1396)、「選要略記」を著して「本迹勝劣」を説いたのが最初とされる。

京都本能寺の開祖・日隆は遅くとも1415(応永22)年・本応寺創建のころには、すでに本迹勝劣を説き明かしていた。法華宗本門流大本山京都本能寺発行の正式文献「本能寺」によれば

「本能寺の創建は、応永22(1415)、日隆聖人が当時、修行していた妙本寺(のちの妙顕寺)の綱紀が乱れがちなのを嘆き、伯父にあたる日存、日道両上人とともにその粛正を願い出ていれられず、相携えて同寺を去り、油小路高辻と五条坊門の間(現・醒泉小学校付近)に寺塔を建立、本応寺(のちの本能寺)と称したのを起源としている。このころ日隆聖人は、『法華経』二十八品の教えには迹門(前半十四品)と本門(後半十四品)に勝劣の別があること、つまり本門が勝れ、迹門が劣っていること(本迹勝劣)を解明したが、これに異を唱え、敵意すらいだくようになった妙本寺(京都妙顕寺)の教徒は、日隆聖人の身辺をしばしば窺い、ついに妙本寺五代の月明は六人の刺客をさしむけて聖人を亡きものにしようとたくらんだ」(『本能寺』p19)

とある。

 

 

□本迹勝劣・種脱勝劣の「百六箇抄」成立は日陣・日隆の本迹勝劣義よりも後のことである

 

本能寺の正式見解によれば、日隆は、妙本寺を退出して本応寺(本能寺)を創建した頃、法華経に本迹勝劣があることを解明したとある。日隆の事跡・履歴を見てみると

1405(応永12)年 妙本寺を退出し比叡山、高野山に遊学。

1410(応永17)年 日存、日道と越後本成寺に日陣を訪ねる。

1415(応永22)年 本応寺を創建

1418(応永25)年 本応寺が破脚される。(『本能寺』p16)

となっているので、1415(応永22)年 本応寺を創建のころには、日隆は本迹勝劣義を明確に確立していたと考えられる。

さて一方の大石寺の「本迹勝劣義」のルーツは、「百六箇抄」の一百六箇本迹勝劣。

「百六箇抄」が歴史上はじめて文献に登場するのが、本是院日叶(左京阿闍梨日教)の著書「百五十箇条」である。その「百五十箇条」は、いつ成立したのか。大石寺59世堀日亨は、「百五十箇条」の成立年について、自らの著書「隠れたる左京日教師」で、次のように述べている。

「本抄(百五十箇条)は表紙・目録・入文いずれにも著者の自署なく、現存写本は要山(要法寺)の什にして、日志(智伝時代)等の筆なり。現存本に依りて本師(左京阿闍梨日教)の著なることを証するものは、目録の終りに著作の意を記して「且は末代初心の為、且は先師日耀の為也」と云えると、第九条等に日叶の名あり。…表題には本是院日叶上人百五十箇条全とし、目録の初めには本是院日叶上人作と、智伝の私記あることが的実なれば也…

…次に著作年代もまた他本の如く記入しあらざれば、文中を捜りて左の手懸りを得て、以て仮に文明十二年とす」(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨の著書「隠れたる左京日教師」p75)

つまり堀日亨の言によると、この書が1480(文明12)年の書であるとする根拠について、「百五十箇条」の百十八条に「当乱に紛失」と書いてあることを掲げている。これを堀日亨は、「百六箇抄」「本因妙抄」の文明11年の奥書に「当乱、馬来本堂院坊、破壊し畢ぬ。然る間、本尊、聖教、皆々紛失」とあり、岡宮光長寺文書に「以前、此の秘蔵抄を先師日耀より相伝有りと雖も、当乱、馬来本堂院坊、破壊し畢ぬ。然る間、本尊、聖教、皆々紛失…文明十一年八月二十八日 日叶在判」とあるのと同趣旨と解釈し、「この乱は、時あたかも応仁の乱期にして、馬来は山名家の領地なれば、その余波を受けたるものか。いずれにせよ、当乱と云えるが故にその時を去ること遠からざるべし」(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨の著書「隠れたる左京日教師」p76)

と述べて、「以て仮に文明十二年とす」としている。つまり「百六箇抄」の本迹勝劣の成立は、あきらかに日陣が応永3(1396)、「選要略記」を著して「本迹勝劣」を説いたこと、日隆の「本迹勝劣義」確立よりも、はるかに後のことなのである。

本能寺31三門
 

(京都本能寺)

9世日有4(諸記録)
 

(能勢順道氏の著書『諸記録』に載っている大石寺9世日有の肖像画)