■検証51・百六箇抄が偽書である証拠・日蓮本仏義の大ウソ21

 

□「佐渡の冬は北極のように寒い」は日蓮正宗・創価学会・顕正会・正信会のウソである

 

「日蓮正宗系」団体が唱える日蓮本仏義と小氷期、身延山での日蓮の極貧・極寒生活には、もうひとつ面白い矛盾がある。日蓮正宗、創価学会、顕正会等の「日蓮正宗系」団体では、「日蓮大聖人様は、極寒の佐渡島へ流罪になり、奇跡的に生きて鎌倉へ帰った」「極寒の厳しい寒さと雪の佐渡島の生活に耐えられたのは、奇跡だ。日蓮大聖人様は末法の御本仏の証拠」「佐渡島の冬は、北極のような寒さだった」…等々と、日蓮が身延山に入る前の佐渡島での生活が極寒・極貧生活で、身延山の生活は信徒からの供養で百人以上の弟子を養う生活をしていたなどと言っている。20075月、日蓮正宗は佐渡で「佐渡塚原跡碑建立法要」なる法要を、日蓮正宗大石寺68世早瀬日如法主の臨席のもとで営んでいるが、この席で早瀬日如はこんなことを言っている。

「佐渡在島中の大聖人様の御苦難というものは、それこそ筆舌に尽くせぬものがあったと拝する次第でございます。」

日蓮が佐渡流罪中の「筆舌に尽くせぬ苦難」というのは、まず佐渡が「北極のような厳寒の地」であったと言いたいようである。ところが、実際はこれが全く逆。こんな日蓮正宗の宣伝は真っ赤なウソ。実際は佐渡島は比較的温暖な島で、身延山の日蓮の生活が極寒地獄、餓死寸前の極貧生活だったのである。佐渡というのは、新潟県沖の日本海上にぽっかり浮かんでいる島。当然、「アンチ日蓮正宗」管理人も、佐渡島に行って現地調査をしてきている。

実際は佐渡島というところは、佐渡沖を対馬海流が流れている影響から、新潟県の本土側に比べ積雪は少ない。冬に数メートルの積雪がある豪雪地帯は、新潟県・本土側の山岳地帯の話しであって、佐渡島の話しではない。また、佐渡の冬は、北極のような寒さ・厳寒の冬どころか、気温が新潟県本土側にくらべて12度程度高く、わりと温暖で、とても過ごしやすい地域である。

私は佐渡に行ったとき、何人もの地元の人たちから話しを伺ったのだが、異口同音に、佐渡の寄稿については、「冬はほとんど雪が降らない」「とても温暖で、すごしやすい所」と言っていた。

また佐渡沖の日本海は、暖流と寒流の接点にあるめ、植生にきわめて富んでおり、佐渡島内で北海道・沖縄両地方特有の植物が同居する、非常に珍しい地域であるというのである。というわけで、佐渡はわりと自然の食べ物も豊富。日蓮が好きだった酒造りも、上古の昔から行われている。

ところで、流罪(るざい)とは刑罰の一つで、罪人を辺境や離島に送る追放刑であるが、日本の国土は中国のような広大ではなかった為に、畿内からの距離によって「近流」・「中流」・「遠流」の3等級が存在した。基準としては近流300里・中流560里・遠流1500里であったと言われている。

つまり京都・鎌倉から遠隔地に追放するのが主眼の刑罰だったのであって、「北極のような厳寒の地」に幽閉することが主眼だったわけではない。ちなみに流罪者の妻妾は連座して強制的に同行させられるが、他の家族は希望者のみが送られた。

 

 

□五尺の雪がふる極寒地獄、極貧地獄の身延山より佐渡島では、ましな生活をしていた日蓮

 

流罪にされる場合、暴力犯より政治犯が往々にして遠くに飛ばされる傾向にあり、政治犯は多くの場合文化人であり、古い時代は貴族等、位の高い者が多かった。したがってその様な人物が多数流される地には豊かな文化が伝えられる例が多い。佐渡島はその典型的な例である。

佐渡流罪になった例としては、日蓮の他に、安宿王、伴国道、藤原致忠、源頼治、源義綱、源明国、藤原盛憲、源成雅、文覚、順徳上皇、京極為兼、日野資朝、世阿弥、小倉実起等、皇族・貴族等、位の高い者や文化人が多い。佐渡国には平安時代には国司がおり、鎌倉時代にも守護・地頭がいた。鎌倉幕府は守護代として、本間氏を佐渡に派遣しており、同時に佐渡に入った御家人の渋谷・藍原氏らとともに、戦国時代までこれらの諸氏が佐渡を支配していた。

佐渡の冬が「北極のような寒さ・厳寒の冬」だったら、そもそも国司も守護代もいるはずがないし、安宿王、伴国道、藤原致忠、源頼治、源義綱、源明国、藤原盛憲、源成雅、文覚、順徳上皇、世阿弥といった位の高い者や文化人たちが流されてくるわけがない。「北極のような寒さ・厳寒の冬」ではないからこそ、このような位の高い者や文化人たちが流されてきたのではないか。こんな温暖で、すごしやすい佐渡に流されてきた日蓮が、「筆舌に尽くせぬ御苦難」があったなどと言うのは、あまりにも誇張しすぎである。日蓮正宗では、2007516日、新潟県佐渡市目黒町において、「佐渡塚原跡碑建立法要」なる名前の法要が、大石寺68世早瀬日如法主が臨席して奉修。日蓮の霊跡である塚原の跡地に、「塚原跡碑」を建立して、法要を営んだのだという。ならばその「厳寒の冬」の時期に日蓮の流罪を偲んで、法要を営んではどうなのか。ポカポカ陽気の佐渡の冬に法要をやってしまったら、彼らのウソと欺瞞がバレて崩壊してしまったことだろう。

最後に一点。「鎌倉時代が小氷期ならば、佐渡島も大雪が降る極寒地獄だったのではないか」との疑難があるが、これは当たらない。佐渡滞在中に日蓮が書いた遺文(御書)に、身延山の極寒地獄、極貧地獄と同等ないしはそれ以上の悲惨な生活をしていたことを思わせる文は皆無である。佐渡島は、新潟県の本土側に比べ積雪は少なく、冬に数メートルの積雪がある豪雪地帯は、新潟県・本土側の山岳地帯の話しであって、佐渡島の話しではない。佐渡在島中に日蓮が執筆した開目抄に「此は魂魄佐土の国にいたりて、返る年の二月雪中にしるして」(御書全集p563)と、「雪中」とあるので、佐渡でも降雪、積雪はあったと思われるが、日蓮が身延山の生活について「・・・五尺の雪ふりて本よりも通わぬ山道ふさがり…」 (御書全集p1437)「雪かたくなる事金剛のごとし。今に消ゆる事なし。…酒は凍りて石のごとし」 (御書全集p1294)「其の身の色、紅蓮・大紅蓮のごとし。声は波々大波々地獄にことならず」 (御書全集p1295)と書いたような悲惨な生活ぶりを伺わせる文は、佐渡在島中の日蓮遺文(御書)には見あたらない。少なくとも日蓮は、極寒地獄、極貧地獄の身延山よりは、ましな生活をしていたと思われるのである。

池上大堂・日蓮1
 

(佐渡の生活は身延山よりはよかった日蓮)