□「日蓮正宗系」の労働蔑視・労働遊離思想は奈良・平安仏教と鎌倉仏教の混同によるもの

 

日蓮正宗・法華講員、創価学会員、顕正会員ら「日蓮正宗系」団体の信者に共通の悪弊として、労働、所得、企業などの経済活動を蔑視しているということがある。人が労働をして勤労所得を得ることは、別に悪いことでも何でもない。人間の営みとして、当たり前のことである。あるいは何らかの事業を行って事業所得を得ることは、当たり前のこと。何らかの違法行為でもあれば、話は別だが、合法的に事業を行って事業所得を得て、その会社で働く社員が勤労所得を得るという経済活動は、人間の営みとして当たり前のことである。ところが日蓮正宗寺院住職、法華講幹部、創価学会幹部、顕正会幹部等は、労働、所得、企業などの経済活動蔑視の指導を平然と行っている。例えば、説法や信徒の会合の席では、やれ三毒だの人間の欲がどうだの、あるいは「蔵の財よりも身の財、身の財よりも心の財」といった指導が行われている。蔵の財とは、金銭などの財産のことで、これより身の財や心の財が大事だとの指導であるが、こんなものは序の口である。あるいは○○の会合は仕事の都合で行けないという信徒は大勢いる。ところがこれに対して、創価学会でも法華講でも、仕事を休んででも会合に来いとか、登山に行けという意味の指導をする。ただし日蓮正宗でも創価学会でも、ストレートな表現で、仕事を休んで会合に来いとか、大石寺登山に行けとは言わない。間接表現を使って言うのである。例えば、創価学会では「池田先生のために、命も惜しまないのが創価班だ」と創価班員に指導する。これは仕事を休んで、創価班の活動に参加せよ、という意味である。あるいは「キミは仕事と池田先生と、どっちが大事なんだ」「創価学会は仏意仏勅の団体だ。創価学会の活動は、世間の経済活動よりも優れている」…。こういった類の指導も全く同じで、仕事を休んで創価学会の活動に参加せよ、という意味である。また仕事を理由に創価班の活動を休んだ創価学会員を、露骨な「総括」という名のイジメ・虐待を行うのも、全く同じ意味である。こう言うと創価学会は、戸田城聖が「信心は一人前、仕事は三人前」と指導していたと言い出す。しかしそれは、あくまでも戸田城聖の時代の建て前的指導であって、池田大作が会長になって以降の話しではない。こういった間接表現で仕事を休んで会合に来いとか、大石寺登山に行けという「労働蔑視体質」は、日蓮正宗も全く同じである。例えば日蓮正宗寺院住職は、御講の説法等で「世間の金持ちは遊んでいるだの、威張っているだの、愛人をかこっているだのと、世間の金持ち批判をする。そうすると、こういう説法を聞いている信徒のほうは、高額所得を得ることは悪、ないしは労働で所得を得ることを悪だと洗脳されていく。こうした「労働蔑視思想」に洗脳されてしまった信徒は、世間の仕事よりも大石寺登山等を優先するようになる。また日蓮正宗や創価学会を離檀・脱会した元信者の中で、富士門流寺院ないしは富士門流系寺院で出家して僧侶になる者がいるが、その出家動機には日蓮正宗・創価学会の信徒時代に教え込まれた「労働蔑視思想」が大きく影響していることは否めない。

 

 

世間の金持ちにも、それはいろんな金持ちがいるだろうが。日々働いて高収入を得て財産を築き上げること自体は、悪いことでも何でもない。よほどのインチキ商法でカネ儲けをしたとか、法律違反をやってカネ儲けをしたとか、あるいは反社会的活動でカネ儲けをしたとか、あるいは脱税をしていたとか…こういうことであれば、当然、問題であろうし批判されて当然だろう。何らかの違法行為があれば、刑事責任や民事責任を問われて当然だろう。しかし「世間の金持ちは遊んでいるだの、威張っているだの、愛人をかこっているだの」との、「日蓮正宗系」の世間の金持ち批判は、そんな意味なのではない。日蓮の遺文(御書)「蔵の財よりも身の財、身の財よりも心の財第一」なのである。「日蓮正宗系」で言う「蔵の財」とは、労働や事業で得た収入や財産ということ。身の財とは健康で、心の財とは創価学会や法華講での活動や指導のことだと、こじつけようとする。そしてさらに三毒だの人間の欲がどうだのという指導が耳に入れば、聞いている信徒のほうは、世間の仕事よりも創価学会活動やら法華講の活動、大石寺登山を優先させようとする。

しかし本当に日蓮は、世間の仕事よりも日蓮の信仰を優先させよ、という意味で)「蔵の財よりも身の財、身の財よりも心の財第一」と言ったのだろうか。鎌倉時代は、日蓮をはじめ法然、親鸞、栄西、道元、一遍などの鎌倉仏教が花開いた時代。日蓮、法然、親鸞、一遍ら鎌倉仏教の開祖は、それまで仏教と無縁だった一般庶民に布教をした。在家の庶民が在家の身のままで仏門に入る布教をしているのに、鎌倉仏教の開祖たちが仕事等の世事を否定する説法をしていたら、一般庶民に布教が出来るはずがない。庶民は仕事等の世事を否定する説法などに耳を傾けたりしないだろう。そこで2013102日号「エコノミスト」誌に載っていた、興味深い説をここで紹介したい。

その中の「宗教と経済」特集記事の中で、ひろさちや氏がこんな説を書いている。

「キリスト教の労働観は、労働とは神が人間に与えた罰であるとする労働懲罰説。これに対して仏教は労働軽視説で、釈迦は一度も生産活動に従事したことがなかった。釈迦は出家修行者に労働を禁じた。出家僧侶は托鉢によって、人々の施しで生きるべきだと教えた。釈迦が説いた仏教の根にあるのは、労働からの遊離であり、労働蔑視である」(趣意)というのが、ひろさちや氏の説である。釈迦如来が説いた仏教の教えは、主に出家僧侶を対象に説かれた教えであり、日本でも仏教伝来以来、飛鳥、奈良、平安時代に仏教に帰依していたのは、天皇、皇族、公家、貴族といった上流階級のみであった。だからそういう貴族仏教の教えも、必然的に労働からの遊離、労働蔑視の方向に傾斜していっている。それは、説法の対象が天皇、皇族、公家や出家僧侶だったからである。だから、ひろさちや氏の説も、「労働からの遊離」「労働蔑視の仏教」というのは、鎌倉仏教の話ではなく、奈良仏教、平安仏教の話である。しかし法然、親鸞、一遍、日蓮ら鎌倉仏教の開祖は、在家の庶民に布教をして、庶民が仏教に帰依し、「南無阿弥陀仏」「南無妙法蓮華経」を唱えた。鎌倉仏教の開祖は、在家の世事・生活をそのまま認めた上で、「南無阿弥陀仏」「南無妙法蓮華経」を唱え、仏教に帰依することを勧めた。決して「労働からの遊離」「労働蔑視」などは説いていない。佐藤唯行・獨協大学教授の説によれば、ユダヤ教には清貧の教えは存在せず、ユダヤ人の中に経済的成功者が多いのは、ユダヤ教では人間の営利欲求は神が作り出した善きもの、富を追求する衝動は人間の幸福にとって不可欠なものと認める教えにあるという。かくして創価学会や日蓮正宗・法華講の奈良仏教、平安仏教と鎌倉仏教の混同による労働蔑視思想を見聞すると、創価学会や日蓮正宗・法華講の者たちの短見が滑稽に見えるだけである。

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