■検証62・百六箇抄が日蓮真筆・日興真蹟ではない無関係の偽書である証拠7

 

□百六箇抄に説かれている男尊女卑思想は日蓮の教説の中に存在しない

 

「百六箇抄」には、驚くべき男尊女卑思想が説かれているのをご存知だろうか。その「百六箇抄」に説かれている男尊女卑思想の文とは、この文である。

「四、久遠自受用報身の本迹 男は本、女は迹、知り難き勝劣なり。能く能く伝流口決すべき者なり」(平成新編御書全集p1694/大石寺59世堀日亨編纂「富士宗学要集」1p15)

この文中「男は本、女は迹」とあるが、これはどこをどう見ても男尊女卑思想と見る以外にあるまい。こんな男尊女卑思想は、日蓮の遺文(御書)を紐解いても、どこにも説かれていない。これもまた「百六箇抄」が日蓮の教説ではなく、偽書であることを証する証拠の一つである。

「百六箇抄」に説かれる、こんな極端な封建的男尊女卑社会の中で女性が冷遇されているのが、日蓮正宗、創価学会、顕正会、正信会の「日蓮正宗系」団体である。創価学会は信者に対して、「男は外で仕事。女は家庭に入る」という、極めて古くさい封建的な生き方を押しつけていること。独身信者に対して、創価学会員同士の自由恋愛を認めていないこと。さらに会長、理事長、副理事長、副会長といった最高幹部は全員が男性。組織単位に見ても、男性総県長と総県婦人部長、男性県長と県婦人部長、男性総区長と総区婦人部長、男性区長と区婦人部長という組み合わせになっている。女性総県長と総県壮年部長、女性総区長と総区壮年部長といった組み合わせは皆無である。創価学会における女性の最高役職は全国総合婦人部長である。創価学会の主戦力は、婦人部である現実からして、女性理事長、女性副理事長、女性副会長、女性総県長、女性総区長がいても、おかしくないと思われるが、現に存在しないのは、創価学会が、封建的男尊女卑、男性優位の団体だからではないか。主戦力の女性を「婦人部」「女性部」に押し込めてしまおうとする体質は日蓮正宗も創価学会も顕正会も正信会も同じである。

日蓮正宗では、僧侶は全員男性。昔は日蓮正宗にも尼僧がいたが、今は廃止していて、女性が出家得度して僧侶になる道すら閉ざされている。女性は寺族止まり。信徒は、総講頭、大講頭、大石寺総代は全員男性。末寺の総代、法華講支部の法主認証役員である講頭・副講頭・幹事・会計もほとんど男性で、ごく一部に女性がいるが、女性総代、女性講頭・副講頭は認めない住職が大半。露骨に公衆の面前で「女の総代、講頭、副講頭はダメだ」と公言する住職までいる。「女」という言葉を使うなど、部外者が聞いてびっくりするほどの封建的男尊女卑体質である。

それから日蓮正宗では、住職・修行僧らの食事・賄いの面倒を全て寺族に押しつけている。こういうことは日蓮正宗宗門だけでなく、正信会も同じ。禅宗では、自分で精進料理を造ることも修行であると教えていて、禅宗の僧侶は、自分で自分の食事を作って食べる。

顕正会は、会長、理事長は浅井家の世襲で、男尊女卑よりももっとひどい封建的体質である。

 

 

□女性が僧侶として出家得度し尼僧になる道すら閉ざされている日蓮正宗

 

日蓮正宗系では、寺族や女性信者に対しては、「女性は結婚して家庭に入れ」という生き方を一方的に押しつけている。男尊女卑体質は、僧侶も信者も全く同じ。法華講も創価学会も顕正会も正信会も全く同じである。だから全てにわたって男性優位の社会になっている。

日蓮正宗の信者に対しても、「女性は家庭に入って専業主婦」になり、昼も夜も信仰活動に励め、という生き方を押しつけるから、「働く女性」「キャリアウーマン」という生き方をする女性は全く浮かばれない。「働く女性」「キャリアウーマン」「専業主婦」…数多くある生き方の中から、女性が自由意志で選択して「専業主婦」になるのと、最初から「この生き方しかない」ということで、頭ごなしに専業主婦を押しつけられるのとは、意味が全く違う。しかも、日蓮正宗の場合、女性寺族に対しては、極端に「僧侶の嫁になって専業主婦になり、僧侶の身の回りの世話をする」という生き方を、画一的に押しつけている。女性は僧侶として出家する道すら閉ざされている。こう言うと、「そんなことは、他宗も同じなのではないのか」と言うだろうが、そうではない。

鎌倉仏教は、「女人成仏」「女人往生」等と女性の救済を説いた。鎌倉仏教のひとつである日蓮も、女人成仏抄等々の数多くの遺文(御書)で「女人成仏」「女人往生」を説いている。叡尊は建長元年(1249年)、かつての国分尼寺の総本山・法華寺再興の際に尼戒壇を設置。この真言律宗の布教の影響によって次第に尼への受戒が許容されるようになり、鎌倉・室町時代には、京都・鎌倉に尼五山が定められた。尼は室町時代以降、日本仏教のほぼ全ての宗派に置かれた。特に南北朝時代において、浄土真宗仏光寺派本山・仏光寺第九代門主の了明尼公は、史上初の尼僧として仏光寺一門の門主に登座している。又、明治21(1888)に仏光寺第二十七代門主・真意尼公も尼僧である。ところが日蓮正宗では、女性尼僧が法主になるどころか、尼僧そのものを廃止してしまっていて、女性が出家得度して僧侶になる道すら閉ざされている。それから日蓮正宗では、寺族に住職・修行僧らの食事・賄いの面倒を全て寺族に押しつけていることについてだが、ちなみに禅宗の僧侶は、自分で自分の食事を作って食べる。禅宗の僧侶が作って食べる料理を精進料理といい、鎌倉・建長寺の僧侶が作った「建長寺汁」が、その後、なまって「けんちん汁」になったと言われている。禅宗では、自分で精進料理を造ることも修行であると教えている。

それから僧侶・寺族の老後との関連であるが、一応、日蓮正宗でも寺族には「寺族同心会」という団体があり、住職が先に死去した場合、寺族には年金が支給されるシステムになっている。

ただ住職が死去すると、寺族は寺院から出て行かなくてはならなくなるため、どうしても自分の息子を出家得度させ、娘を住職の嫁にする方向に行ってしまうようである。そういうことがあるからか、日蓮正宗の僧侶・寺族の間は、複雑な血縁関係が入り乱れている。こんな男尊女卑・古くさい時代錯誤的・アナクロニズム的な日蓮正宗系を現代の女性が心の底から喜んで魅力的だと支持するだろうか。日蓮正宗系では、独身女性信者の数が独身男性信者の数の約半分くらいしかいないというのも、なんとなく、うなずけてしまうのである。

百六箇抄1
 

(百六箇抄)