■検証69・百六箇抄が大石寺9世日有の偽作である証拠・大石寺独自の「事の戒壇」義4

 

□大石寺門流において「戒壇の大本尊」と「事の戒壇」は全く表裏一体・同体のもの

 

「三大秘法」の「戒壇」を、「事の戒壇」と「義の戒壇」に分けて定義づけをしたのは、日蓮正宗大石寺26世日寛である。すなわち、大石寺26世日寛は自らの著書「文底秘沈抄」において

「正しく事の戒壇とは一閻浮提の人・懺悔滅罪の処なり。但然るのみに非ず、梵天・帝釈等も来下して蹋(ふみ)給うべき戒壇なり」(日蓮正宗聖典p849)

と述べて、「事の戒壇」を「三大秘法抄」の戒壇建立であるとし、そして「義の戒壇」については、

「義の戒壇とは即ち是れ本門の本尊所住の処、義の戒壇に当たる故なり」(日蓮正宗聖典p849)

と述べて、「義の戒壇」は、大石寺法主が書写した本尊を祀っている大石寺の末寺、信者宅のことであるとしている。大石寺26世日寛がこういう定義づけをしたのは、時は江戸幕府・徳川吉宗が将軍であった享保の時代のことである。

ところが昭和の時代に入り、創価学会の強引・執拗な折伏・入信勧誘によって日蓮正宗の信者数が激増し、それまで約五百年の長い間、大石寺宝蔵に格蔵されていた「戒壇の大本尊」なる板本尊が奉安殿に祀られた。そしてさらに正本堂が落慶しようかという昭和四十年代、時の日蓮正宗大石寺法主・第66世細井日達が、「戒壇の大本尊」なる板本尊が祀られている場所=「事の戒壇」という大石寺の法義を鮮明にした。すなわち、大石寺66世細井日達法主は

「大御本尊のおわします堂がそのまま戒壇堂であります。…戒壇の御本尊は、特別な戒壇堂ではなく、本堂にご安置申し上げるべきであります」(1965216日の第1回正本堂建設委員会)

「大御本尊は…大聖人の一身の当体でありますから、本門戒壇の大御本尊安置のところは、すなわち、事の戒壇であります」(197053日の創価学会本部総会法主特別講演)

と述べて、「戒壇の大本尊」なる板本尊が祀られている場所=「事の戒壇」であることを、公式に宣言している。

さらに平成16826日の大石寺大講堂における「全国教師講習会」の法主講義の席にて、大石寺67世阿部日顕法主は、昭和45(1970)、日蓮正宗大石寺66世細井日達法主が、早瀬日慈総監と阿部信雄教学部長(後の大石寺67世阿部日顕)の前で、「これは相伝である」として以下のような「御戒壇説法」を示したことを明かしている。その「相伝」とは

「本門戒壇建立の勝地は当地富士山なること疑いなし。またその本堂に安置し奉る大御本尊は今、眼前にましますことなれば、この所すなわちこれ本門事の戒壇、真の霊山、事の寂光土にして、若し此の霊場に詣でん輩は無始の罪障、速やかに消滅し…」

(平成16826日・大石寺大講堂・法主講義)

百六箇抄1
 

(1936(昭和11)堀日亨編纂『富士宗学要集』に載っている「百六箇抄」)

 

 

「御宝蔵説法」とは、奉安殿落慶以前において、大石寺法主が「戒壇の大本尊」の「御開扉」の度に説法したもので、これは今は大石寺の大きな法要(霊宝虫払い大法会・御大会・法主代替法要・日蓮遠忌大法会)での「御開扉」のときに法主が行っている「御戒壇説法」のことである。

このように大石寺の歴代法主が、大石寺9世日有の言う「事の戒壇」の意味が、「戒壇の大本尊」なる名前の板本尊を祀る場所であるという意味のことを、明確に示しているのである。そして大石寺の「事の戒壇」は、今や「去年の暦の如し」と言われる「理の戒壇」になってしまった比叡山延暦寺の天皇勅許の「大乗戒壇」より優れているという意味になる。

さらに日蓮正宗では、日本一国に日蓮正宗の信者が蔓延した「広宣流布」の時には、大石寺=「三大秘法抄」の戒壇=広宣流布の時に建立される本門寺になるのだから、「戒壇の大本尊」なる板本尊が祀られている場所=「事の戒壇」=「三大秘法抄」の「事の戒壇」になる、という解釈もあらゆる文献にて鮮明にしている。

では、なぜこのような「戒壇の大本尊」なる板本尊が祀られている場所=「事の戒壇」=「三大秘法抄」の「事の戒壇」になる、という解釈を昭和四十年代になるまで日蓮正宗は言わなかったのか、という疑問に対して、日蓮正宗では

「日寛上人は、当時の徳川幕府の圧政下において、まだまだ戒壇大御本尊が秘蔵中の秘蔵の扱いであったため、大御本尊に直接関わる根源の事の戒壇については、詳細を軽々に説くことを避け、略示に止められた。これを時至りて御先師日達上人が、体系的に、余すところなく明示あそばされたのである」(日蓮正宗理境坊妙観講講頭・大草一男氏の著書「続摧破異流義考」p7)

と、言い訳をしている。つまり日蓮正宗としては、昔から「戒壇の大本尊」なる板本尊が祀られている場所=「事の戒壇」が本義であると認識していたのだが、日寛の時代は徳川幕府の圧政下にあった時代だったから、言わなかっただけで、細井日達法主の代に、日蓮正宗の信者が増えて正本堂建立という時を迎えるに到ったので、細井日達法主が「時至れり」として、「戒壇の大本尊」なる板本尊が祀られている場所=「事の戒壇」の教義を公式に説いたのだ、と言うわけである。

この大草一男氏の著書「続摧破異流義考」に書いてある「言い訳」は、「事の戒壇」「戒壇の大本尊」が大石寺9世日有の偽作であることを隠蔽しようとする「言い訳」であるから、これは除外するとして、日蓮正宗の教義の本義からして、「戒壇の大本尊」なる板本尊が祀られている場所=「事の戒壇」であるのだから、「戒壇の大本尊」なる板本尊と、「事の戒壇」は、全く表裏一体であるということは、ここに鮮明になっている。つまり「戒壇の大本尊」なる板本尊=「事の戒壇」なのである。

すなわち「戒壇の大本尊」=「事の戒壇」という観点からも、「百六箇抄」の中の

「四十二、下種の弘通戒壇実勝の本迹、 三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺本堂なり」

百六箇抄6(富士山本門寺本堂)


「又五人並に已外の諸僧等、日本乃至一閻浮提の外万国に之を流布せしむと雖も、日興嫡嫡相承の曼荼羅を以て本堂の正本尊と為すべきなり」

百六箇抄7(日興嫡嫡相承本堂正本尊)

(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂「富士宗学要集」1p18p21)

の文を偽作したのが、大石寺9世日有以外にいないという結論が導き出されてくるのである。


9世日有4(諸記録)
 

(能勢順道氏の著書『諸記録』に載っている大石寺9世日有の肖像画)