■検証127・大石寺9世日有が大石寺門流ではじめて行った京都天奏4

 

□天皇・朝廷から見て「正式官僧ではない」大石寺三祖日目の申状を天皇に伝奏するはずがない

 

大石寺三祖日目をはじめ大石寺法主の京都天奏が本当に行われたのか、あるいは申状が本当に天皇の許に奏上されたのかという問題を論ずるとき、絶対に見失ってはならない重要なポイントがある。日蓮正宗では、「1281(弘安4)12月に日目上人が日興上人の代理で園城寺申状を時の天皇に奏上した」などと言っているが、そんなことは絶対にない。仮に日興や日目、大石寺法主が京都天奏に行ったとしても、時の天皇が日興や日目の申状を受け取るはずがない。

それはなぜか。それは日興も日目も、天皇が正式に勅許した戒壇、すなわち伝教大師最澄が朝廷の勅許で建立した大乗戒壇の比叡山延暦寺と、延暦寺以前からある日本三大戒壇である奈良・東大寺、筑紫・観世音寺、下野・薬師寺のいずれでも授戒・度牒した経験がなく、天皇・朝廷や京都・奈良の仏教界から見て、正式に認められた官僧ではないからである。

そもそも「戒壇」とは、戒律を授ける(授戒)ための場所を指すのであるが、「戒壇」で授戒を受けることで出家者が正式な僧侶・尼として認められることになる。すなわち官僧である。

日本に仏教が伝わった当時の戒律は、不完全なもので、当時、出家僧侶は税を免除されていたため、税を逃れるために出家して得度を受けない私度僧が多くいた。又、出家僧侶といえど修行もせず堕落した僧が多かった。そのため、唐より鑑真が招かれ、戒律が伝えられ、東大寺に戒壇が築かれて授戒し、この戒律を守れるものだけが僧として認められることとなった。

東大寺というのは、奈良市にある華厳宗大本山の寺。奈良時代(8世紀)に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺である。「奈良の大仏」として知られる盧舎那仏を本尊とし、世界最大級の木造建築である大仏殿が有名な、あの東大寺である。

鑑真は754年、東大寺に戒壇を築き、同年4月に聖武天皇をはじめ430人に授戒を行なった。これが最初の戒壇である。その後、東大寺に戒壇院を建立し、筑紫の大宰府の観世音寺、下野国(現在の栃木県)の薬師寺に戒壇を築いた。これ以降、僧になるためには、いずれかの戒壇で授戒して戒牒を受けることが必須となり、国(国分寺)が僧を管理することになった。

すなわち、この当時の僧侶、国が管理する戒壇で授戒・戒牒を受けた僧侶の地位とは、国家資格であり、国家公認の僧、すなわち官僧である。大和国の東大寺、法華寺は総国分寺、総国分尼寺とされ、全国の国分寺、国分尼寺の総本山と位置づけられたが、822年、伝教大師最澄の死後、比叡山延暦寺に戒壇の勅許が下され、大乗戒壇が建立された。

当時は、中国の仏教界は比叡山延暦寺の大乗戒壇を、戒壇としては認めておらず、ここで受戒した僧は、中国では僧侶として認められなかった。また、官立寺院(官寺)ではない比叡山延暦寺に戒壇設置を認められたことに東大寺をはじめとする南都(奈良)の寺院の反発を招いた。東大寺は、大石寺9世日有が在世の時代でも、日本三大戒壇のひとつであり、総国分寺であった。

 

 

□誰でも彼でも天皇に面会できたわけではないし天皇に奏上・申状を言上できたわけではない

 

このように奈良・平安・鎌倉・室町時代の日本では、僧の地位は国家資格であり、国家公認の僧となるための儀式を行う「戒壇」で授戒されない僧侶は、僧侶としてすら認められなかった。

当時の日本では、国家公認の僧となるための儀式を行う「戒壇」は、伝教大師最澄が朝廷の勅許で建立した大乗戒壇の比叡山延暦寺と、延暦寺以前からある日本三大戒壇の奈良・東大寺、筑紫・観世音寺、下野・薬師寺、奈良・唐招提寺しか存在しなかった。

したがって、当然のことながら、奈良・平安・鎌倉・室町・安土桃山・江戸時代の比叡山延暦寺・天台座主も、朝廷・太政官が官符をもって任命する公的官職であった。

そもそも天台座主とは、日本の天台宗(延暦寺派)の総本山である比叡山延暦寺の貫主(住職)で、天台宗(延暦寺派)の諸末寺を総監する役職であるが、2世圓澄までは天台宗・比叡山延暦寺内の私称であったが、3世の圓仁からは朝廷・太政官が官符をもって任命する中央政府の公的な役職となり、これが明治4年(1871年)まで続いたのである。

したがって、比叡山延暦寺や日本三大戒壇の奈良・東大寺、筑紫・観世音寺、下野・薬師寺で修行・度牒・授戒の経験のない日興、日目は、天皇・朝廷からすれば、正式官僧ではなく、そのような「どこの馬の骨かわからない」者が書いた申状を、そもそも伝奏が天皇に取り次ぐ道理がないし、そんなことをするはずがないのである。宮中で、親王・摂家・諸社寺・武家などからの奏上・請願等を天皇や上皇・法皇に取り次ぐ職のことを「伝奏」(てんそう)と言うが、伝奏は、「天皇に取り次いで欲しい」と出願された奏上・請願・申状等々を何でも天皇に取り次いだわけではない。

武家が実質的な日本の政権を握っていた鎌倉・室町・安土桃山・江戸時代においても、みかど(御門、帝)、きんり(禁裏)、だいり(内裏)、きんちゅう(禁中)などさまざまに呼ばれた。

「みかど」とは本来御所の御門のことであり、禁裏・禁中・内裏は御所そのものを指す言葉である。これらは天皇を直接名指すのをはばかった婉曲表現であるが、鎌倉・室町・安土桃山・江戸時代においても、天皇とは、公式には「天照大神の万世一系の子孫」であり、日本の君主であったことに変わりはない。天皇のことを「陛下」と言うが、これは「陛」は宮殿の階段。階下にいる近臣を通じて奏上する意から、階段の下にいる取り次ぎの方まで申し上げます、という意味がある。

その天皇の側近で仕える者も、一部の限られた身分の者に限られ、誰でも彼でも天皇に面会できたわけではないし、誰でも彼でも奏上・請願・申状を言上できたわけではない。

それほど、「天皇」という地位は、格段に身分の高い、特別の殿上人、雲の上の人であり、特別な地位にある君主なのである。

3祖日目3
 

(大石寺三祖日目)

3祖日目申状
 

(大石寺三祖日目申状)

9世日有4(諸記録)
 

(能勢順道氏の著書『諸記録』に載っている大石寺9世日有の肖像画)