■検証133・大石寺9世日有が大石寺門流ではじめて行った京都天奏10

 

□小泉久遠寺・保田妙本寺開祖・日郷の申状は京都の天皇の元には伝奏されていない

 

日蓮正宗大石寺9世法主日有の申状は、朝廷への伝奏を司る比叡山延暦寺をはじめ南都六宗・八宗の京都・奈良の大寺院から宜面なく門前払いにされてしまうという屈辱を味わったということを書いたが、申状が天皇の元に届けられないのは、日郷とて同じである。

当時の日本では僧の地位は国家資格であり、国家公認の僧となるための儀式を行う官寺の「戒壇」で授戒されない僧侶は、僧侶としてすら認められなかった。日郷も申状の中で日蓮の遺弟を名乗っているものの、朝廷や朝廷公認の南都六宗・八宗の僧侶からすれば、朝廷公認の官寺での修行経験の全くない日郷は所詮、駿河国の私度僧にすぎないということになる。

日郷の国諫の場合は、上杉管領を伝奏したと「富士年表」に書いてあるが、この上杉管領とは、京都・室町幕府の管領ではなく、鎌倉の関東管領・上杉憲顕のことと思われる。

関東管領(かんとうかんれい)は、南北朝時代から室町時代に、室町幕府が設置した鎌倉府の長官である鎌倉公方を補佐するために設置した役職名である。当初は関東執事(かんとうしつじ)と呼ばれていた。鎌倉公方の下部組織でありながら、任命権等は将軍にあった。

当初は2人指導体制で、上杉憲顕、斯波家長、次いで高師冬、畠山国清らが任じられる。関東執事は初期においては斯波氏、畠山氏が就任していたが次第に上杉氏に独占されていき、最終的には上杉氏が世襲していくことになる。また、上杉氏は上野、伊豆の守護も担っていた。

関東管領は、室町幕府の将軍への伝奏はするが、京都朝廷の伝奏まで行う権限は持ち合わせていない。よって日郷の申状が関東管領・上杉氏によって伝奏されたとしても、室町幕府の足利将軍止まりであり、とても天皇の元にまでは伝奏されないということになる。

保田妙本寺の古文書を研究している千葉大学大学院人文社会科学研究科教授の佐藤博信氏の著書「安房妙本寺日我一代記」の中で、日郷が康永4(1345)2月、貞和5(1349)12月と二度、宗義天奏のために上洛したことは史実として書いているが、光明天皇の詔勅の件については一言も書いておらず、佐藤博信氏はこれを史実と認めていないものと考えられる。

ちなみに佐藤博信氏は、宗義天奏の言葉の意味について

「諫暁=宗義天奏(天皇や将軍に日蓮宗の教義を信仰するように奏上すること)(『安房妙本寺日我一代記』p15)

と書いており、京都の足利将軍に諫暁することも天奏に含めている。

日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨は、「天奏」と云う言葉を使わずに「国諫」(国主諫暁)という言葉を使っているところが面白い。「国諫」と言うと、天皇に奏上するのみならず、将軍に奏上することも含まれる。

 

 

ちなみに佐藤博信氏は、貞和5(1349)12月の二度目の日郷京都上洛の折りには、京都・鳥辺山の日目正廟で日目十七回忌を行ったと書いており、日郷の京都上洛の目的は、国諫のみではなく、京都・鳥辺山の日目正廟で日目十七回忌法要も目的のひとつであると書いている。

よってこれらのことを総合して、日郷の場合も、京都に上洛したのは史実であるが、日郷の申状は京都の天皇の元には届けられずに、伝奏されても足利将軍止まりだったと考えられるのである。

保田妙本寺1
 

(保田妙本寺)

小泉久遠寺13客殿

(小泉久遠寺)

佐藤博信2

 

(『中世東国の政治構造』)