■検証76・百六箇抄が大石寺9世日有の偽作である証拠・大石寺独自の「事の戒壇」義11

 

□大石寺独自の「事の戒壇」を偽作した大石寺9世日有は「三大秘法抄」の戒壇の文を知っていた

 

日蓮「三大秘法抄」に出てくる戒壇と、大石寺9世日有が独自に発明・偽作した「事の戒壇」とは明らかに内容が異なるものであり、日蓮「三大秘法抄」の戒壇と大石寺9世日有が独自に発明・偽作した「事の戒壇」とは全く別個のものである。日蓮の「三大秘法抄」に説かれる戒壇と、大石寺9世日有が独自に偽作した「事の戒壇」とは、どこが違うのか。第一に「三大秘法抄」の戒壇に祀る本尊とは「寿量品に建立する所の本尊は、五百塵点の当初より以来、此土有縁深厚・本有無作三身の教主釈尊是なり」(御書p1594)となっており、これは「久遠実成の釈尊」であって、大石寺の「戒壇の大本尊」ではない。大石寺9世日有が独自に発明・偽作した「事の戒壇」に祀られる本尊は、大石寺9世日有が偽作した「日蓮造立」を詐称する「戒壇の大本尊」なる板本尊である。

第二に、日蓮「三大秘法抄」の戒壇は、広宣流布・王仏冥合が達成された暁に建立される戒壇だが、大石寺9世日有が独自に発明・偽作した「事の戒壇」に祀られる本尊は、大石寺9世日有が偽作した「戒壇の大本尊」が祀られている堂宇は、いつでもどこでも全て「事の戒壇」である。その「事の戒壇」が広宣流布・王仏冥合達成の暁に「富士山本門寺本堂(正本堂)」となって顕現するというもの。つまり大石寺9世日有が独自に発明・偽作した「事の戒壇」とは、日蓮「三大秘法抄」の戒壇をベースにして、本尊を「久遠実成の釈尊」から大石寺9世日有が偽作した「日蓮造立」を詐称する「戒壇の大本尊」なる板本尊にすり替え、さらに比叡山延暦寺根本中堂の秘仏本尊・薬師如来や法隆寺夢殿の秘仏本尊・救世観音等をアレンジしたものであることが明らか。比叡山延暦寺や法隆寺夢殿のアレンジはさておくとして、大石寺9世日有は、少なくとも日蓮「三大秘法抄」の戒壇の文、日蓮「三大秘法抄」の全文を知っていたことになる。では、どうして大石寺9世日有は、日蓮「三大秘法抄」の文を知っていたのだろうか。まずは興風談所・山上弘道氏の論文・研究を元にして、日蓮「三大秘法抄」の写本について検証してみたい。

日蓮「三大秘法抄」の写本でもっとも古いものは、中山門流の久遠成院日親が嘉吉2年(1442年)に書写したものである。日蓮「三大秘法抄」に言及している最古の文献は同じく中山門流の本成房日実が寛正2(1461)に著した『当家宗旨名目』である。その『当家宗旨名目』に

「……此ノ御書の相承ハ、中山太田金吾殿ヘノ御遺言也。御自筆中山ニ之アリ。……諸御書ニ御座ナキ大事ヲ遊ス故ニ、三大秘法ノ抄ト申ス也。……他門不可見、当門徒ノ秘蔵也。敢テ口外スベカラザル也。」(山川智応氏「三大秘法鈔の真偽問題」)

とある。日実は、日蓮「三大秘法抄」とは日蓮の太田金吾への遺言であり、中山門流には秘書(秘蔵の書籍との意味)として、日蓮「三大秘法抄」の真蹟が蔵せられているという。

 

 

現在でも、「三大秘法抄」の日蓮真蹟の所在は明らかにされておらず、日蓮を宗祖とする宗派の間でも、長い間、真偽論争が闘わされてきた。それが1990年代に入って、立正大学仏教学部教授、同大学院文学研究科長。日蓮宗大本山・山科本圀寺第104世貫首・伊藤瑞叡(日慈)氏の研究・著書(『なぜいま三大秘法抄か―計量文献学入門―』『三大秘法抄はなぜ真作か―計量文献学序説』『三大秘法抄の真偽論争―本門戒壇論入門』で、「三大秘法抄真書説」が登場。これにより、日蓮宗等でも「三大秘法抄真書説」が一般定説化してきている。

さらにこの他に1990年代に入って、法華宗本門流開祖・慶林房日隆が応永1516年(14081409)頃に書写した日蓮「三大秘法抄」の写本、さらに大石寺6世日時が1397年に書写したものがあるという。大石寺67世阿部日顕法主は、平成5(1993)427日・大石寺大客殿での教師補任式の説法で、こんなことを言っている。

「それはともかく、『三大秘法抄』は御真書が残っておりませんので、書写本でこれを見てまいりました。そのなかで一番古いと思われていたのが久遠成院日親という人が書写したといわれる書写本で、これは現在、京都の本法寺に蔵されていると思われますが、これが、嘉吉二年(1442年)の書写本であります。しかし、先年、本宗の書庫のなかから(大石寺)第六世日時上人が応永四年(1397年)に書写された写本が発見されました。これは、嘉吉二年の久遠成院日親の書写本、いわゆる鐺冠り日親ですが、その写本よりも45年ほど古いということになります。その御先師御書写の『三大秘法抄』において、「弘安五年」とはっきりお書きになってあるのです。」

(日蓮正宗宗務院機関誌『大日蓮』19936月号)

もうひとつの日隆のほうだが、日隆が1445年以降に著した『弘経抄』(八)でかく書いている。

「疑ウテ曰ク、三大秘法抄トテ諸門流ノ重宝サルル御抄之アリ。之ヲ用フベキ歟。如何。答フ、謀実ノ事ハ未定也。去リナガラ文体ニ付テハ不審繁多也。能々之ヲ明ラムベシ云々。」

(山川智応氏「三大秘法鈔の真偽問題」)

日隆は、「三大秘法抄」に疑義を呈した人物として有名で、ここでは真偽未決としている。日隆が「本門弘経抄」を著した日隆の晩年の頃には、「三大秘法抄」が「諸門流に重用されている」と書いている。ただし日隆が「三大秘法抄」の写本を書き上げた応永1516年(14081409)頃とは、日隆が本迹論争で京都妙顕寺を退出して、諸国を遊学していたころのこと。

大石寺が蔵しているという大石寺6世日時が応永四年(1397年)に書写した「三大秘法抄」写本については、そもそも大石寺の文献は、「二箇相承」「日興跡条条事」「百六箇抄」「本因妙抄」「本尊三度相伝」「本尊七箇相承」「御義口伝」「産湯相承事」等々、偽書だらけであり、根本本尊にしている「戒壇の大本尊」なる板本尊からして大石寺9世日有の偽作である。よって大石寺67世阿部日顕の説法だけで、日時写本を真書と認めるわけにはいかない。これは当然のことであろう。

それよりも日隆が15世紀中頃には「三大秘法抄」が「諸門流に重用されている」と書いていること。中山門流による写本が残っていることに注目すべきである。つまり少なくとも15世紀中頃には、「三大秘法抄」が日蓮を宗祖とする門流に広く知れ渡り、重用されていたこと。こう言った中で、大石寺9世日有が、「三大秘法抄」を知り得たということは充分に考えられるのである。

9世日有4(諸記録)
 

(能勢順道氏の著書『諸記録』に載っている大石寺9世日有の肖像画)