□日蓮正宗、創価学会、妙信講三つどもえの正本堂の意義付け問題で起きた暴力襲撃事件

 

顕正会(妙信講)の暴力体質・暴力宗教ぶりを象徴するものとして、引き合いに出されるのが、197410月の創価学会本部襲撃事件である。なぜ妙信講が創価学会本部を襲撃したのか。

日蓮正宗、創価学会、妙信講は、1970(昭和45)年ころから、大石寺に1972(昭和47)10月に落慶した正本堂の意義について、鋭く対立していた。創価学会は正本堂を「三大秘法抄の戒壇だ」として、日蓮正宗に対して、正本堂を三大秘法抄の戒壇として意義づけるように圧力をかけていた。

妙信講は、「三大秘法抄の戒壇とは国立戒壇。正本堂は三大秘法抄の戒壇ではない」として、日蓮正宗、創価学会に猛烈な抗議を仕掛けていた。これに対して日蓮正宗は、1970(昭和45)53日の創価学会本部総会に臨席した大石寺66世細井日達法主が「国立戒壇の名称不使用」を宣言。さらに1972(昭和47)428日に大石寺66世細井日達法主が訓諭を発令。正本堂を「三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇」「広宣流布の暁に本門寺戒壇たるべき大殿堂」と意義づけた。この大石寺66世細井日達法主の説法・訓諭は「日蓮正宗の伝統法義と異なる」として妙信講が抗議。昭和49(1974)年に入って日蓮正宗は妙信講を大石寺登山停止処分にする。

さらにこれに妙信講が抗議活動を行い、昭和49(1974)8月に日蓮正宗は妙信講を講中解散処分とした。これら一連の日蓮正宗の「国立戒壇の名称不使用」宣言、訓諭、登山停止、講中解散を、「創価学会の日蓮正宗への圧力によるものだ」として、妙信講は日蓮正宗に対してのみならず、創価学会にも抗議活動を仕掛けたというわけである。

正本堂の意義付けについて日蓮正宗・創価学会と妙信講(現顕正会)の対立が頂点に達していた1974(昭和49)年104日、妙信講の浅井甚兵衛講頭・浅井昭衛理事長(現・顕正会会長)親子は、青年部を使嗾して、創価学会本部を襲撃させるという暴力事件を起こした。

妙信講は 9月中、大音量でがなりたてた街宣車やデモで毎日のように創価学会本部に来て「北条、出て来い」などと、何とか創価学会を事件に巻き込もうと挑発の限りをつくしていた。

1974(昭和49)104日、午前6時前、鉢巻姿で目をつり上げた物々しい青年達が、続々と創価学会本部前に集合し、妙信講の街宣車も到着して門の前で気勢を上げた。通報を受けて駆けつけた警察が首謀者に対し、無届けの集会やデモは違法であり、ただちに解散するように警告したところ、「北条にあわせろ」と創価学会首脳との面会を要求。警戒にあたっていた警官の面前で、首謀者の妙信講・長○○志青年部長が「会わないなら今日は実力で会うぞ」とマイクで叫び、「かかれ」と号令。これに応じて、門扉の前などで構えていた数名が、いきなり扉や塀によじ登って乗り越え、創価学会本部の構内に不法侵入すると、勝手にかんぬきをはずして扉を開け放ち、幹部を先頭に数十名が暴徒と化して構内になだれ込み、総合案内所の守衛が制止するのを突きとばし、はねのけて、一隊は隊列を組んで正面階段をまっすぐにかけ上がって創価文化会館入口に殺到。創価文化会館入場口に差しかかり、先頭が扉に手をかけて引きあけ、中に乱入しようとした。

 

 

創価学会本部職員は、規制に動き出した警官と協力して各入口から前庭に出て暴徒を門外に押し出し、門扉を閉めた。ところが、妙信講暴徒は再突入をはかり、門の外にあった街宣車を動かし、何とエンジンをふかして門扉に二度、三度と体当りの衝突をさせた。 このため、鉄のかんぬきやつっかい棒も壊され扉は突破されて、街宣車とともに乱入した数十名の暴徒は本部職員や警官に激しく掴みかかり、襲いかかった。このため扉を押えていた職員数名が鉄扉と塀の間にはさまれそうになり、生命の危険にさらされた他、職員十数名が暴行を加えられて負傷し、建物や施設が破損された。

このようにして、30分間余り創価学会本部に乱入して乱暴狼藉の限りを尽くした暴徒は、首謀者の誰かが「引き上げろ」と号令をかけたのを合図に、逮捕者と門内に残った者以外は、一斉に信濃町駅の方に引上げて行くところを、出動した機動隊に全員検挙された。 又、創価学会本部前庭に残った暴徒も全員が現行犯逮捕された。結局、この事件で、妙信講の青年達のほぼ全員数十名が逮捕され、首謀者の長○○志、村△△治、本××は拘留されて厳しい取り調べを受けた。

この事件で創価学会職員は、暴徒から殴る蹴るの暴行を受け、16名が負傷。この事件は一般紙に大きく報道され、世間の非難が妙信講に集中した。その結果、首謀者3名が建物不法侵入罪、器物損壊罪で起訴され、有罪が確定。残りの者については、有罪ではあるが、改悛の情を表明したので処分は留保された。

昭和47(1972)当時、浅井昭衛は盛んに“流血の惨事を引起こすぞ”と日蓮正宗宗務院や創価学会本部を脅迫していた。浅井昭衛は「青年数百名で総本山大石寺や創価学会本部に押し入り、座りこむ。当然排除しようとする創価学会青年と争いがおこり、流血はもちろん、人が死ぬこともあり得る。その結果、世間の耳目をしよう動し、事は法廷に持ちこまれるであろう。 そこで、公廷及び国民注視の中で国立戒壇論を述べるのである」と繰り返して述べていた。昭和49(1974)4月にも、同じく日蓮正宗宗務院に対し、「無条件で登山を認めよ、さもなくば、創価学会本部に押しかけて騒ぐ。何がおこっても知らないぞ」と脅していた。 浅井昭衛は、常にいわゆる非常手段、最後の手段として学会本部襲撃を考え公言していた。そして浅井昭衛は、青年達を実力行動にかり立てるようなアジ演説を常に妙信講内で行い、9月には青年都の幹部が血判を押した宣戦布告書を学会本部に届けるなどして凶暴な群集心理を盛り上げていた。

1974103日夜、会合の後、青年部の幹部を集めて、長○○志、村△△治らが創価学会本部襲撃計画を発表し、スケジュールや担当を決めた上で翌日準備し、夕方の犯行に臨んだもの。何人かが塀を乗りこえ侵入して門扉を開け、宣伝カーを突入させるとともに全員が構内に入り込み、座り込んだり建物に押入って面会を強要する、といったことは、既に前夜から決められていたものだった。浅井昭衛はそれまで今にも自分が腹でも切るかのような言動をしてたが、いざ実行となると、責任の一切を青年達にかぶせていた。浅井は、事件の直後に四谷署に行って「自分をつかまえて皆を出してくれ、責任は自分にある」等と言いながら、取調を受けた際は「抗議に行けとは言ったが乱入しろとは指示しなかった」等と言い逃れていた。結局、最後は実行犯の長○○志、村△△治、本××の3名の妙信講青年が首謀者として一切の責任を負い、刑に服した。

(mixiアンチ日蓮正宗」コミュからの引用)

顕正会・浅井昭衛1
 

(本当の事件の首謀者・浅井昭衛)