□すでに大石寺9世日有の代からあった日蓮宗・富士門流での大石寺批判・大石寺教学批判

 

日蓮正宗の法華講員は、創価学会批判をしているのは法華講員だけだと錯覚していることに加えて、日本国内で日蓮正宗批判をしているのは、創価学会、顕正会、正信会だけだと錯覚しているという、二重の錯覚妄想に浸りきっている。これなどは、錯覚をとおりこした法華講員の「うぬぼれ」「のぼせあがり」だと言ういい方もできよう。つまり世間一般では、日蓮正宗という宗教団体は、700年以上の歴史ある伝統仏教で、全く批判されていないと思い込んでしまっている。このほとんど「うぬぼれ」「のぼせあがり」的な錯覚妄想は、法華講員の家庭に生まれ育った法華講員、あるいは創価学会員の家庭に生まれ育ち、第一次宗創紛争や1990年代以降の宗創戦争以降に、創価学会から法華講に移った信徒、あるいは顕正会、正信会の家庭に生まれ育ったのち、法華講に移った信徒に多く見られる悪弊・弊害である。あるいは「創価学会や顕正会は世間の評判は悪いが、日蓮正宗はそんなことはない」などと勝手に思い込み、創価学会や顕正会を脱会したのち、日蓮正宗・法華講に入る人もいる。では法華講員、創価学会員、顕正会員等の家庭に生まれ育った人が、なぜこんな錯覚・悪弊に陥っているのか。彼らは生まれて間もないころから、日蓮正宗、創価学会、顕正会、正信会等「日蓮正宗系」のことしか教わっておらず、極めて閉鎖的な「日蓮正宗系」の社会の中でのみ生きてきている。そしてその中で、幼少期、子どもの頃から徹底した「日蓮正宗系」の洗脳教育を頭の隅々にまで、叩き込まれてしまっている。だから日本国内で「宗教」とよべるものが、日蓮正宗、創価学会、顕正会、正信会等「日蓮正宗系」しかないものだと思い込んでしまっている。「そんなことはない。外を歩けば神社や伝統仏教の寺院はたくさんあるじゃないか」と言うだろうが、彼らは、街角や外を歩いているときに、伝統仏教の寺院、神社、新宗教の伽藍・堂宇が目に入ってきても、「あれは死せる宗教」「死んでしまった宗教」だと「日蓮正宗系」に教え込まれてしまっているため、伝統仏教の寺院や神社が目に入ってきても、彼らは宗教だと認識しないのである。まことにもって困った人たちである。もちろんこんな錯覚・妄想を、自分たちは錯覚とも妄想とも、ましてや「うぬぼれ」「のぼせあがり」だとも認識していないから、全く困った人たちである。それでは何も知らない「日蓮正宗系」の信者、中でも法華講員たちのために、大石寺批判の歴史について教えてあげよう。

日蓮宗・富士門流における本格的な大石寺批判のさきがけは、何と大石寺9世日有の時代、大石寺9世日有入滅の年の大石寺、北山本門寺、小泉久遠寺の問答であり、さらに北山本門寺六代日浄の大石寺9世日有批判が最も古いものとして挙げられよう。面白いことに、大石寺9世日有の「戒壇の大本尊」「二箇相承」「日興跡条条事」「百六箇抄」「本尊七箇相承」等を偽作した、間もなくの頃、富士門流内部から大石寺批判が沸き起こっている。つづいて、室町時代に大石寺との通用を拒否された京都要法寺13祖貫首・日辰が大石寺教学、百六箇抄、本因妙抄等を批判している。

 

 

□江戸時代末期ころから沸き起こってきた大石寺の「戒壇の大本尊」なる板本尊への疑義・批判

 

江戸時代に入ると大石寺と北山本門寺、京都要法寺との間で造仏読誦、曼荼羅本尊の是非についての論争、大石寺と京都要法寺との間で、どちらに血脈があるかの論争が起きている。さらに江戸時代末期ころから、大石寺の「戒壇の大本尊」なる板本尊についての疑義が沸き起こる。

明治維新によって、大石寺は日蓮宗勝劣派→日蓮宗興門派(富士門流八本山)にまとまるが、大石寺の「戒壇の大本尊」や血脈相承について、大石寺と他の七本山で大論争が沸き起こる。これは戒壇の大本尊と血脈を相承する大石寺法主を日蓮宗興門派管長にせよと要求する大石寺と、これに反対する七本山という図式だった。

第二次世界大戦後、日蓮正宗以外の宗教を全て邪宗・邪教と決めつける戸田城聖が指揮する創価学会の折伏大進撃がはじまり、日蓮正宗・創価学会の信徒が激増。この創価学会の折伏・布教に大打撃を受けたのが、日蓮宗、浄土宗、浄土真宗、天台宗などの一般伝統仏教と、天理教、立正佼成会、霊友会等の新宗教だった。195070年代にかけて、日蓮宗や法華宗等の一般伝統仏教の僧侶らが、日蓮正宗の教学、大石寺の「戒壇の大本尊」批判、創価学会の布教、体質を批判する本を続々と出版している。その代表作となる本が、安永弁哲氏の「板本尊偽作論」、木下日順氏の「板本尊偽作の研究」、由比宏道氏の「毒鼓の縁―破日蓮正宗創価学会」であり、日蓮宗宗務院の「日蓮正宗創価学会批判」である。また創価学会の折伏大進撃の時代は、日蓮正宗・創価学会の「国立戒壇」批判、創価学会・公明党の政教一致批判も沸き上がっており、藤原弘達氏の「創価学会を斬る」、内藤国夫氏の「公明党の素顔」等の出版をめぐって、創価学会の言論出版妨害事件が起こったことは余りにも有名。この言論問題を契機にして国会では池田大作の証人喚問が取りだたされ、共産党議員が国会質疑の場で「国立戒壇は憲法違反ではないか」との質問をした。こういった創価学会批判の沸騰により、池田大作は197053日の創価学会本部総会で、国立戒壇放棄、創価学会・公明党の政教分離、創価学会の縦線組織の解体等を公式に宣言。同じく大石寺66世細井日達法主も、国立戒壇の名称を不使用とする宣言をした。そしてこれを契機に、創価学会の折伏大進撃の勢いは大幅にダウン。池田大作も「量より質」を重要視すると宣言した。日蓮正宗の内紛、分裂によって、日蓮正宗の元信者、創価学会の元信者による日蓮正宗批判の本が出てきたのは、1970年以降のことである。しかし日蓮正宗の内紛、分裂によって出てきた日蓮正宗批判は、顕正会は何十年経っても国立戒壇名称不使用宣言批判や正本堂、事の戒壇批判を言うだけ。正信会の日蓮正宗批判、創価学会批判は、何十年たっても大石寺67世阿部日顕の血脈批判、昭和五十二年路線批判を言うだけ。創価学会の日蓮正宗批判は、シアトル事件だの高級料亭に行っただのという、スキャンダルを告発するだけ。それでシアトル事件の和解が成立すると、創価学会の日蓮正宗批判そのものが大きくトーンダウンした。結局、日蓮正宗の内紛、分裂によって出てきた日蓮正宗批判からは何一つ生まれたものはない。世間一般・マスコミの日蓮正宗批判・創価学会批判が、創価学会の折伏大進撃をストップさせ、国立戒壇を放棄させ、表向きだけながら政教分離宣言をさせたのである。

北山本門寺39仁王門
 

(富士門流の大石寺批判のさきがけ・北山本門寺)

小泉久遠寺6客殿
 

(富士門流の大石寺批判のさきがけ・小泉久遠寺)

創価学会を斬る1
 

(藤原弘達氏の「創価学会を斬る」)

公明党の素顔1
 

(内藤国夫氏著書「公明党の素顔」)

溝口敦・学会批判本1
 

(溝口敦氏著書「池田大作・権力者の構造」)