■検証8・日蓮正宗大石寺に「日蓮の遺骨・日蓮の墓」は存在しない8

 

□日興は身延離山のときに、身延山久遠寺から何も持ち出していない1

 

「日興跡条条事」第三条の文「一、大石の寺は御堂と云ひ、墓所と云ひ、日目之を管領し修理を加え、勤行を致し広宣流布を待つべきなり」(大石寺59世堀日亨編纂『富士宗学要集』8p17・『御書全集』p1883より)の文の中の「墓所」とは、日蓮正宗の公式見解では、日蓮の墓所という意味だと言っている。しかし日興が在世当時の大石寺に、「戒壇の大本尊」が祀られていた「御堂」も日蓮の真骨が納められていた「墓所」もなかった。大石寺には、日蓮の真骨も日蓮の正墓も存在していない。それはなぜか。日興は身延離山のときに、身延山久遠寺の重宝は何一つ持ち出していないのである。したがって日興在世はおろか、現在に至るも、大石寺には日蓮の真骨もなければ正墓もない。したがって、「大石の寺は御堂と云ひ、墓所と云ひ」などという、あたかも日興在世の時代の大石寺に御堂や墓所があったかのような記述のある「日興跡条条事」なる文書は、後世の偽作ということになる。日蓮正宗や創価学会、顕正会等の「日蓮正宗系」では、

「日興上人は本門弘通の大導師であり、身延山久遠寺の別当であったから、身延離山のときに『戒壇の大本尊』『日蓮真骨』『御肉牙』『最初仏』『二箇相承』などのすべての重宝を身延山久遠寺から持ち出した」「身延山久遠寺の別当だったからこそ『本門戒壇の大御本尊』や『日蓮真骨』をひとつも残らず、持ち出すことができた」と信者に教えている。しかし本当に、そうなのだろうか?

実は、日興は身延離山のときに、身延山久遠寺から何も持ち出していないのである。

こんな日興真筆の文書が残っている。それは「原殿御返事」という書物の追伸なのだが、日付は1288(正応元年)1216日になっているから、身延離山直後の手紙である。

「追って申し候、涅槃経第三、第九、二巻、 御所にて談じて候ひしを、愚書に取具して持ち来て候、聖人の御経にて渡らせ給い候間、慥かに送り進せ候」(大石寺59世堀日亨の著書「富士日興上人詳伝」241242ページに収録) ---追伸です。涅槃経の第三と第九の二巻を、御所であれこれ話している間に、自分の愚書の中に、まちがって持ってきてしまいました。日蓮のお経ですので、ただちに送り返し申し上げます。---

原殿という人は、波木井実長の一族の人で、身延山久遠寺周辺に住んでいたと言われている人である。日興はこの原殿に宛てた手紙の中で、「間違って持ってきてしまった」「日蓮のお経だから」という理由で、涅槃経を二巻、波木井実長の一族である原殿に「返す」と言っている。

もし日興が日蓮から相承された本門弘通の大導師であり、身延山久遠寺の別当ならば、「日蓮のお経」を原殿に返す必要は全くない。

あるいは、日蓮正宗や創価学会が言うように、日興が身延離山のときに、身延山久遠寺から「すべての重宝」を持ち出したというならば、たかが涅槃経ぐらいのことで、日興が原殿に日蓮の涅槃経二巻を「返す」という手紙を書くはずがない。 つまり、日興は身延離山のときに、身延山久遠寺から何も持ち出していない。このことは、大石寺59世堀日亨自身が、自らの著書の中で明確に認めている。

 

 

□日興は身延離山のときに何も持ち出していないと認めている大石寺59世法主堀日亨

 

日蓮正宗大石寺59世法主であった堀日亨自身が、「日興は身延離山のときに、身延山久遠寺から何も持ち出していない」と断言しているのである。

堀日亨は、自らの著書「富士日興上人詳伝」において、次のようなことを書いている。

「すでに原殿抄(原殿御返事のこと)の末文にあるごとく、延山(身延山久遠寺のこと)の常住物は何一つ持ち出していない。涅槃経の中の二巻を御使用のまま持ち出されたので、十二月十六日に返還せられてあるくらいで、したがって日尊実録の中にも『身延沢御退出の刻、公方、聖教、世事雑具等、皆悉く御墓所に之を置くべきの由、衆徒に触れられし時、面々供奉の人々、一紙半銭も持ち出ることなし』と書いておる。とうぜんのことである」(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨の著書「富士日興上人詳伝」p280281より)

つまり、日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨は、「日興は身延離山のときに、身延山久遠寺から何も持ち出していない」と、自ら断言しているのである。そして「日尊実録」の文の意味も、まさにこの意味であり、当然のことである、とまで言い切っているのである。 にもかかわらず、日蓮正宗や創価学会、顕正会等の「日蓮正宗系」は、自分たちの教団の信者に

「日興上人は身延離山の時に、すべての重宝を身延山から持ち出した」

と教えている。そういうことにでもしないと、日興が日蓮の遺骨やら「戒壇の大本尊」なる板本尊を持ち出したことの説明ができなくなってしまう。 しかし、堀日亨が言うように、「日興は身延離山のときに、身延山久遠寺から何も持ち出していない」ということになると、大石寺にある「戒壇の大本尊」なる板本尊も、日蓮の遺骨も、御肉牙も、最初仏も、二箇相承も、なにもかもニセモノということになる。 よって、「原殿御返事」は、堀日亨はよほど都合の悪い文書だと思ったのか、堀日亨が自ら編纂した「富士宗学要集」には収録せず、後に「富士日興上人詳伝」の中で、こっそり載せている。 したがって、日蓮正宗や創価学会、顕正会等の「日蓮正宗系」で言っている

「日興上人は本門弘通の大導師で身延山久遠寺の別当であったから、身延離山のときに『戒壇の大本尊』『日蓮真骨』『御肉牙』『最初仏』などのすべての重宝を身延山久遠寺から持ち出した」

「身延山久遠寺の別当だったからこそ『戒壇の大本尊』や『日蓮真骨』をひとつも残らず、持ち出すことができた」

などという話しは、全くのウソである。日蓮正宗や創価学会、顕正会等の「日蓮正宗系」が、日興が身延離山のときに身延山久遠寺から持ち出したなどと称している、大石寺にある「戒壇の大本尊」なる板本尊も、日蓮の遺骨も、御肉牙も、最初仏も、全てがニセモノということである。

59世日亨2
 

(大石寺59世堀日亨)

2祖日興1
 

(日興)

三師塔2
 

(大石寺墓苑の三師塔)

日興跡条条事2
 

(昭和5549日付け聖教新聞に掲載されている『日興跡条条事』)