■検証11・日蓮正宗大石寺に「日蓮の遺骨・日蓮の墓」は存在しない11

 

□「日興は身延離山で身延山久遠寺から何も持ち出していない」と断言している堀日亨

 

--------------------------------------------------

(日蓮正宗法華講員・やよいの妄説)

日興は「波木井実長が謗法を犯したから、身延山の日蓮の墓には参詣しなくなった」と言っている。つまり日興の元、大石寺には日蓮の遺骨はなかったということになる。つまり日興は身延離山の時、日蓮の遺骨を持ち出していない。「富士一跡門徒存知の事」は、日興が日蓮の遺骨を持たずに身延山を離山したということの正史料である。

とありますが、確かに日蓮大聖人のお墓は身延に建てられ、今も存在しています。が、御遺骨は日興上人がお持ちになったので、お墓はあるが抜け殻という状態であります。抜け殻であってもそれが、お墓という形であるためそのような表現をしておられるのだと思います。(また他に表現する言葉がありますでしょうか?)「富士一跡門徒存知の事」は大石寺に日蓮大聖人の遺骨がない証拠にはなりません。

日興は、身延山に日蓮の遺骨があることを前提とした上で、反論している。→五人所破抄でそのような部分は見当たりません。hideさまが「身延の連中たちは、日蓮の遺骨よりも法門を以て第一義とすべきである」と解釈している部分なのかもしれませんが、それは信仰の対象の優先順位のことを仰っていて、遺骨に執着してはならないということであり、身延に遺骨があるとは仰っていません。(法華講員・やよいがmixi「アンチ日蓮正宗」に書き込んだ反論)

-----------------------------------------------------------------

どうも、やよい氏は、日蓮の遺骨は身延山久遠寺ではなく大石寺にあると言いたいがために、「五人所破抄」「「富士一跡門徒存知の事」の文意を、無理矢理にでも、ねじ曲げて解釈したいようですが、実は、日興は身延離山のときに、身延山久遠寺から何も持ち出していないのである。

こんな日興真筆の文書が残っている。それは「原殿御返事」という書物の追伸なのだが、日付は1288(正応元年)1216日になっているから、身延離山直後の手紙である。

「追って申し候、涅槃経第三、第九、二巻、 御所にて談じて候ひしを、愚書に取具して持ち来て候、聖人の御経にて渡らせ給い候間、慥かに送り進せ候」(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨の著書「富士日興上人詳伝」241242ページに収録)

---追伸です。涅槃経の第三と第九の二巻を、御所であれこれ話している間に、自分の愚書の中に、まちがって持ってきてしまいました。日蓮のお経ですので、ただちに送り返し申し上げます。---

 

 

□「すでに原殿抄の末文にあるごとく延山の常住物は何一つ持ち出していない」と言う堀日亨

 

原殿という人は、波木井実長の一族の人で、身延山久遠寺周辺に住んでいたと言われている人である。日興はこの原殿に宛てた手紙の中で、日興は「日蓮のお経だから」という理由で、涅槃経を二巻、波木井実長の一族である原殿に「返す」と言っているのである。もし日興が日蓮から相承された本門弘通の大導師であり、身延山久遠寺の別当ならば、返す必要は全くない。

あるいは、日蓮正宗や創価学会が言うように、日興が身延離山のときに、身延山久遠寺から「すべての重宝」を持ち出したというならば、たかが涅槃経ぐらいのことで、日興が「返す」という手紙を書くはずがない。日興は身延離山のときに、身延山久遠寺から何も持ち出していないのである。このことは、大石寺59世堀日亨が、明確に認めているのである。であれば、「五人所破抄」で日興は、身延山に日蓮の遺骨があることを前提とした上で、反論していることは明らか。「富士一跡門徒存知の事」の文は、大石寺に日蓮の遺骨がない証拠になること明白である。

大石寺59世堀日亨は、自らの著書「富士日興上人詳伝」において、次のようなことを書いている。

「すでに原殿抄(原殿御返事のこと)の末文にあるごとく、延山(身延山久遠寺のこと)の常住物は何一つ持ち出していない。涅槃経の中の二巻を御使用のまま持ち出されたので、十二月十六日に返還せられてあるくらいで、したがって日尊実録の中にも『身延沢御退出の刻、公方、聖教、世事雑具等、皆悉く御墓所に之を置くべきの由、衆徒に触れられし時、面々供奉の人々、一紙半銭も持ち出ることなし』と書いておる。とうぜんのことである」(「富士日興上人詳伝」p280281)

つまり、大石寺59世堀日亨は、「日興は身延離山のときに、身延山久遠寺から何も持ち出していない」と、自ら断言している。そして「日尊実録」の文の意味も、まさにこの意味であり、とうぜんのことである、とまで言い切っているのである。

にもかかわらず、日蓮正宗や創価学会、顕正会は、信者に「日興は身延離山の時に、すべての重宝を持ち出した」と教えている。そういうことにでもしないと、日興が日蓮の遺骨やら「戒壇の大本尊」なる板本尊を持ち出したことの説明ができなくなってしまう。しかし、堀日亨が言うように、「日興は身延離山のときに、身延山久遠寺から何も持ち出していない」ということになると、大石寺にある「戒壇の大本尊」なる板本尊も、日蓮の遺骨も、御肉牙も、最初仏も、なにもかもニセモノということになる。よって、「原殿御返事」という手紙は、堀日亨はよほど都合の悪い文書だと思ったのか、堀日亨が自ら編纂した「富士宗学要集」には収録せず、後に「富士日興上人詳伝」の中で、こっそり載せている。

59世日亨2
 

(大石寺59世堀日亨)

2祖日興1
 

(日興)

三師塔2
 

(大石寺墓苑の三師塔)

日蓮・祖廟1
 

(身延山久遠寺の日蓮祖廟)