■検証85・百六箇抄が大石寺9世日有の偽作である証拠・大石寺独自の「血脈相承」義6

 

大石寺法主の血脈相承による戒壇大本尊伝承をはじめて鼓吹した左京阿闍梨日教

 

大石寺九世日有が、日蓮正宗大石寺門流で、最初に大石寺法主の血脈なるもの「唯授一人の血脈相承」を唱えたのであるが、この誰がはじめて大石寺法主の血脈なるもの「唯授一人の血脈相承」を唱えたのかについて検証して行く上で、重要なキーパーソンがいる。それが左京阿闍梨日教(本是院日叶)という人物である。

京都の日尊門流から大石寺9世日有の門に帰伏した僧侶・左京阿闍梨日教は、大石寺9世日有の偽作した「戒壇の大本尊」なる板本尊を中心とする、大石寺門流独特の「三大秘法」の教義の重要性を、盛んに鼓吹・宣揚した。 左京阿闍梨日教は、大石寺に格蔵している「戒壇の大本尊」なる板本尊を偽作した大石寺9世日有の『太鼓持ち』を自ら積極的に演じ、大石寺門流の信仰の肝心は、日蓮、日興、日目から歴代法主に伝わる「血脈相承」であり、その「血脈相承」「金口相承」「金師相承」によって「三大秘法」が大石寺に伝承されてきたと、大石寺門流の中で説いた。

大石寺門流における「三大秘法」とは、大石寺9世日有が偽作した「戒壇の大本尊」なる板本尊のことであり、左京阿闍梨日教が説いている「三大秘法」の言葉も、やはり「戒壇の大本尊」なる板本尊を中心に据えた「三大秘法」を意味していることは言うまでもない。

左京阿闍梨日教は自らの著書「穆作抄」「類聚翰集私」では

「三箇秘法とは日蓮日目と御相承し・日興聖人は唯授一人の相承たる間、我が臨終の時・耳にさゝやげと仰せられけるほどに・其の剋に御耳にこそ唱へて聞せ奉り御座す事なり、大聖より御聴聞有る故にこそは日朗の「卿公は御法門聴聞」とて強くも目の耳を引きたまふ日朗の耳引法門とは今の三箇のいはれなり、此の時は日蓮・日目・日興と次第し、御付法は日蓮・日興・日目と次第するなり、此の三箇の秘法は当宗の独歩なり」

「当家の宗旨とは血脈相承肝心なり」「此の門家には日蓮聖人より以来の附法血脈一宗の法頭疑ひなきなり、信の宗旨とは是れが肝要なり」(いずれも『富士宗学要集』2巻「穆作抄」より)

「此の三箇の秘法余流に存知無きも道理なり。池上に於て奥州新田卿公日目に余人を去て唯授一人の御相承、金師・金口の相承是れなり」(『富士宗学要集』2p313「類聚翰集私」より)

詳しい現代語訳は省略するが、左京阿闍梨日教は、三大秘法を「当宗の独歩」――日蓮正宗大石寺独自の秘法と説くために、「耳引法門」と呼ばれるものまで持ち出している。

「耳引法門」とは ―――日蓮は池上邸での入滅に際して、弟子の日目を秘かに呼んで三大秘法を唯授一人相承した。それを聞いて羨んだ日朗は、日目の耳を強く引っ張った―――これが左京阿闍梨日教が説く「耳引法門」の大筋だが、これを左京阿闍梨日教は「穆作抄」「類聚翰集私」といった著書の中で説いている。

 

 

□「唯授一人血脈を相承する大石寺法主は絶対」との「法主信仰」を作り上げた左京阿闍梨日教

 

この「耳引法門」については、大石寺9世日有の説法の聞書とされる「雑々聞書」の中にも

「日目の耳引法門と云ふ事之有り、本尊の大事也。三箇の秘法也」(『歴代法主全書』1p413

と、耳引法門と大石寺の三大秘法を関連づける文があるので、大石寺門流の中で耳引法門と大石寺の三大秘法を関連付けを最初に言い出したのは、大石寺9世日有であると考えられる。

大石寺9世日有の弟子の左京阿闍梨日教は、「三大秘法」---つまり「戒壇の大本尊」なる板本尊が日蓮正宗大石寺に伝承されてきたことを、耳引法門なる説話まで持ち出してきて、大石寺三祖日目からの代々法主による伝承と位置づけた。

「三大秘法」にしろ「血脈相承」にしろ、大石寺門流の中で、大石寺9世日有と左京阿闍梨日教以前においては、こういうことを説く僧侶など一人もいなかった。 これらはいずれも、大石寺9世日有が偽作した「戒壇の大本尊」なる板本尊の地位を正統化せしめ、大石寺の立場を、粉飾・荘厳するために偽作されたもので、信者や一般大衆を騙し、欺瞞すること甚だしいものがある。

日蓮正宗大石寺9世法主・日有は、宗祖日蓮の信仰を継承すべき現大石寺法主を日蓮になぞらえて、現大石寺法主が三世の諸仏、日蓮、日興、日目に代わってさまざまな化儀を執り行い、大石寺門流としての教団を統率するという化儀を確立していった。

その大石寺9世日有の弟子である大石寺僧侶・左京阿闍梨日教は、この化儀・教義をさらに一段とエスカレートさせ、日蓮正宗大石寺法主を「唯授一人」「唯我一人」「血脈相承」「金口相承」「金師相承」と言った言葉で飾りたて、挙げ句の果てに「唯授一人の血脈を相承している大石寺法主は絶対である」などという「法主信仰」を作り上げた。

左京阿闍梨日教は、大石寺九世日有の死後、数年の後、日蓮正宗大石寺を離れ、摂津国(大阪府)の堺を経て、日向国(宮崎県)の穆作院内山を訪れた。1484(文明16)年、「穆作抄」(むかさしょう)と名付けられた注釈書を著した。その後56年足らずの間に左京阿闍梨日教は「四信五品抄見聞」「五段荒量」「類聚翰集私」「六人立義破立抄私記」と次々と、日蓮正宗の教義に関する書物を執筆。これらの書物は、後々の大石寺法主によって書写されるなどして、大石寺門流内で大きな影響力を残している。

9世日有4(諸記録)
 

(能勢順道氏の著書『諸記録』に載っている大石寺9世日有の肖像画)

百六箇抄1
 

(1936(昭和11)堀日亨編纂『富士宗学要集』に載っている「百六箇抄」)

穆作抄1
 

(堀日亨編纂『富士宗学要集』に載っている左京阿闍梨日教「穆作抄」)

穆作抄2法主本尊書写


穆作抄3貫主一人書写
 

(堀日亨編纂『富士宗学要集』に載っている左京阿闍梨日教「穆作抄」・法主の本尊書写文)

類聚翰集私1
 

(堀日亨編纂『富士宗学要集』に載っている左京阿闍梨日教「類聚翰集私」