■検証101・「戒壇の大本尊」日蓮造立を証明する文証はない10(聖人御難事1)

 

□日蓮の遺文「聖人御難事」の文は「戒壇の大本尊」日蓮造立の文証ではない

 

大石寺に鎮座している「戒壇の大本尊」なる板本尊は、日蓮や日興、日目の時代には、影も形もないものであるので、この「戒壇の大本尊」を日蓮が造立したことを証明する文証(文献に残っている証拠)はどこを捜しても全く存在していない。当然のことである。そこで日蓮正宗では、「聖人御難事」の一節を引っ張りだしてきて、「戒壇の大本尊」なる板本尊の文証に仕立て上げようとしている。しかしながら日蓮正宗による「聖人御難事」の引用はこじつけと欺瞞に満ちたものなのである。「戒壇の大本尊」日蓮造立を証明する文証というものは全く存在しない。 こうした日蓮正宗の欺瞞ははっきりと暴かれていかねばならない。 日蓮正宗では、日蓮の遺文(御書)のひとつである「聖人御難事」の以下の一節を引っ張りだしてきて、強引に「戒壇の大本尊」日蓮造立を証明する文証として作為的にでっち上げようとしている。以下の文がそれである。

「去ぬる建長五年太歳癸丑四月二十八日に・・・・・清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして、午の時に此の法門申し始めて今に二十七年、弘安二年太歳己卯なり。仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。其の中の大難申す計りなし。先々に申すがごとし。余は二十七年なり。其の間の大難は各々かつしろしめせり」

(大石寺版『平成新編日蓮大聖人御書』p1396

仏四十余年天台三十余年伝教二十余年余二十七年なり
 

日蓮正宗では、この文中に日蓮が「余は二十七年なり」と書き記しているのは、「戒壇の大本尊」の「弘安二年十月十二日」のことであるなどとすり替えて、「日蓮は弘安二年十月十二日に出世の本懐を遂げた文証だ」などと臆面もなく宣伝してきている。しかし残念ながら、この「聖人御難事」は日蓮が弘安二年十月一日の作であるから、弘安二年十月十二日の「戒壇の大本尊」の文証としての資格は全くない。日蓮が執筆した「聖人御難事」の内容の主文は、日蓮が立宗宣言してから二十七年間の、さまざまな受難について述べているものであり、次の文がつづいている。

「況滅度後の大難は竜樹・天親・天台・伝教いまだ値ひ給はず。法華経の行者ならずといわばいかでか行者にてをはせざるべき。又行者といはんとすれば仏のごとく身より血をあやされず、何に況んや仏に過ぎたる大難なし。経文むなしきがごとし。仏説すでに大虚妄となりぬ」

「而るに日蓮二十七年が間、弘長元年辛酉五月十二日には伊豆国へ流罪、文永元年甲子十一月十一日頭に傷を蒙り左の手を打ち折らる。同じき文永八年辛未九月十二日佐渡国に配流、又頭の座に望む。其の外に弟子を殺され、切られ、追ひ出され、過料等かずをしらず。仏の大難には及ぶか勝れたるか其れは知らず。竜樹・天親・天台・伝教は余に肩を並べがたし。日蓮末法に出でずば仏は大妄語の人、多宝・十方の諸仏は大虚妄の証明なり。仏滅後二千二百三十余年が間、一閻浮提の内に仏の御言を助けたる人但日蓮一人なり」(聖人御難事p13961397)

一閻浮提の内に仏の御言を助けたる人但日蓮一人
 

 


 

 

□「聖人御難事」で自らの受難がなかったら釈迦牟尼の経文が虚妄になってしまうと言っている

 

このように日蓮が年限を入れた受難の文々は他の遺文にもいろいろとある。

「余は二十七年なり」の前後の文脈を見ても、日蓮は、自らの受難や自分が末法に出て難を受けなかったら釈迦牟尼の経文がみな虚妄になってしまうなど、ということについて述べているのである。 したがって「聖人御難事」における「余は二十七年なり」とは、日蓮正宗がいうような「日蓮は二十七年目に出世の本懐を遂げた」という意味ではなく、

「日蓮は二十七年が間、受難の連続であった。このことはすでに各々も御存知のことである」

という意味であること明らかだ。

本照寺7


本照寺10


本照寺2熱原廟
 

(熱原三烈士の一人・神四郎の墓・日蓮宗本照寺)