■検証104・「戒壇の大本尊」日蓮造立を証明する文証はない10(聖人御難事4)

 

□日蓮仏法と「戒壇の大本尊」なる板本尊は根本から矛盾するものである

 

「聖人御難事」の文意を解明するに当たっては、文法解釈のみに依るのではなく、日蓮の仏法そのものの検証を行う必要がある。そもそも日蓮が説いた仏法・教説とは、南無妙法蓮華経の題目を唱えれば、貴賤道俗の差別なく一切衆生が皆、成仏するというものである。これは、日蓮が書き残した遺文(御書)を読めば、明らかである。したがって日蓮は、後に「三箇の秘法」「三大秘法」の題目、本尊、戒壇を説くが、この三大秘法の中では、当然のことながら、南無妙法蓮華経を唱える題目が中心・根本になる。ところが、日蓮正宗、創価学会、顕正会といった「日蓮正宗系」では、「題目よりも本尊が根本である」と言い、「大石寺の本尊に唱えない題目では成仏できない」などと言って、題目よりも本尊を上位にする教説を説く。さらに日蓮正宗では、本尊の中では「戒壇の大本尊」が根本で、「戒壇の大本尊」が祀られている「事の戒壇」つまり大石寺に参詣しなければ成仏できない、などという教説を説いている。これは、題目よりも本尊、本尊よりも戒壇を中心・根本にする三大秘法であって、これは日蓮が説いた三大秘法ではない。日蓮の仏法・教説とは、全く別個の三大秘法であり、全く別個の教説である。こうして総合的に検証すれば、日蓮が「戒壇の大本尊」なる板本尊を造立するはずがないのである。

つまり南無妙法蓮華経と唱えることで、一切衆生皆成仏を唱えて布教した日蓮が、密かに「戒壇の大本尊」なる板本尊を造立して、日興一人だけに、全く内密に相承するなどということを、するはずがないのである。もし日蓮が、弟子や信者の前で「南無妙法蓮華経と唱えれば成仏する」と説いていながら、片や日興一人に対してのみ「戒壇の大本尊の在所に参詣しなければ成仏できない」と説いて、唯授一人の相承していたならば、日蓮は二枚舌の説法をしていたということになる。否、二枚舌どころではない。日興以外の全ての弟子・信者を騙していたということになる。二枚舌以上の欺瞞ということになる。否、日蓮がそういうことをするはずがない。日蓮は、日興以外の全ての弟子・信者を騙していないのである。日蓮が説いた仏法・教説とは、南無妙法蓮華経の題目を唱えれば、貴賤道俗の差別なく一切衆生が皆、成仏するというものである。これ以外にない。騙しているのは、日蓮ではなく、大石寺9世法主・日有以下の大石寺法主が騙しているのである。

このように日蓮の仏法そのものの検証を行っていけば、日蓮の仏法と、戒壇中心の三大秘法、なかんずく「戒壇の大本尊」なる板本尊が、全く矛盾したものであることが明確になる。したがって、日蓮が「戒壇の大本尊」なる板本尊を造立するはずがないことも明確になり、これによって、「聖人御難事」の以下の一節

「去ぬる建長五年太歳癸丑四月二十八日に・・・・・清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして、午の時に此の法門申し始めて今に二十七年、弘安二年太歳己卯なり。仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。其の中の大難申す計りなし。先々に申すがごとし。余は二十七年なり。其の間の大難は各々かつしろしめせり」 (大石寺版『平成新編日蓮大聖人御書』p1396

の文意が、日蓮正宗が言うような「二十七年で余は出世の本懐を遂げた」という意味ではなく、「余も二十七年間、大難を受けてきた」という意味であることがいよいよ明瞭と成るのである。

仏四十余年天台三十余年伝教二十余年余二十七年なり
 

(「聖人御難事」大石寺版『平成新編日蓮大聖人御書』p1396