■検証106・「戒壇の大本尊」日蓮造立を証明する文証はない10(聖人御難事6)

 

□大石寺の「戒壇の大本尊」は日蓮遺文における日蓮自身の言葉と大きく矛盾する

 

二度目の蒙古襲来、いわゆる「弘安の役」は1281(弘安4)年であり、それ以前の弘安二年十月十二日に、いくら農民信者ががんばって「熱原法難」が起こったからといって、日蓮が今まで各遺文(御書)などで言ってきたことを全て撤回して、蒙古が襲来する前に「本門の本尊」を建立して「出世の本懐を遂げる」などということは絶対にあり得ない。そういうことをすれば、日蓮自身が前々から弟子檀那に何度も何度も言っていたことが全てウソだった、ということになってしまうではないか。だから日蓮がそんなことをするはずがない。

弘安四年(1281)五月、日蓮60才のとき、第二回目の蒙古襲来、いわゆる「弘安の役」がはじまったのであったが、しかし弘安四年七月一日の夜、突如として起こった暴風雨のために、蒙古の大艦隊は一夜にして沈没してしまい、またしても蒙古が敗れ去った。 かくして日蓮が「撰時抄」で「いまにしもみよ」と叫び挙げた題目の広宣流布も、「観心本尊抄」で「一閻浮提第一の本尊此の国に立つべし」とうたいあげた「本門の本尊」建立の予言も、又、真言・禅宗の諸人らとの公場対決も、皆、消えてしまった。

日蓮は失意のはてに自らの「本門の本尊」、「本門の戒壇」建立の悲願を弟子たちに託して(弘安548日の三大秘法抄)、弘安5年(1282年)1013日に武州池上でその一生を閉じた。つまり日蓮は「本門の本尊」「本門の戒壇」の建立出現を待つことなく入滅してしまった。 そういう意味で日蓮の理想は、中途半端な形で潰れてしまったということになる。

 

□蒙古襲来が終結していない弘安二年十月十二日に「戒壇の大本尊」を日蓮が建立することは絶対にあり得ない。

 

したがって「弘安の役」より二年も前の、弘安二年十月十二日に「戒壇の大本尊」を日蓮が建立して出世の本懐を遂げたことを宣言するなどということは、絶対にあり得ない。大石寺奉安堂に鎮座している「戒壇の大本尊」なる板本尊は、その存在そのものが日蓮遺文における日蓮自身の言葉と大きく矛盾するものである。日蓮正宗は「熱原法難」に関してはいろいろと作り話に余念がないが、「戒壇の大本尊」なる板本尊と蒙古襲来や日蓮の遺文(御書)との関係の会通については、ほとんど口をつぐんだままだ。 こうして冷静に歴史を検証していくと、日蓮正宗がいかに作為的な欺瞞をしているかが、お分かりいただけるのではないかと思う。

元寇1
 

(蒙古襲来絵詞)