■検証159・大石寺の「戒壇大本尊」が大石寺9世日有の偽作である16の証拠14

 

□「戒壇」義の意味をほとんど知らない日蓮正宗、創価学会、顕正会等「日蓮正宗系」信者

 

大石寺の「戒壇の大本尊」の意味は、「戒壇」に祀る本尊、つまりこの場合は、大石寺9世日有が発明した「事の戒壇」、大石寺独自の「事の戒壇」に祀る本尊という意味である。だからこそ「戒壇本尊」とか「戒壇の大本尊」、あるいは日蓮正宗系では「本門戒壇の大御本尊」とか呼ぶのであるが、日蓮正宗、創価学会、顕正会、正信会等「日蓮正宗系」信者は、「戒壇」と言われても、何の事やらさっぱりわからない信者が大半。「戒壇」とは、仏教教学の根幹に関わる重要な教義であるにもかかわらずである。なぜこうなっているのかというと、日蓮正宗、創価学会、顕正会、正信会等「日蓮正宗系」では、誤った「戒壇」義を信者に教えているからである。戒壇(かいだん)とは仏教用語で、戒律を授ける(授戒)ための場所のこと。戒壇は戒律を受けるための場所であるから、出家者は戒壇で授戒を受けることで正式な僧尼として認められることになる。

臨済宗南禅寺派教学部発行「戒壇歴訪」という本には、「戒壇」について次のように書いてある。

「授戒」とか「戒壇」とは何なのか。臨済宗南禅寺派教学部発行「戒壇歴訪」には次のようにある。

「仏教の伝来は、6世紀半ばころの欽明天皇の時代に百済の聖明王が朝廷に釈迦像と経典を献上したことによる…。伝来した仏教は政治的に利用されながら、権力者によって保護され、奨励されて徐々に広まった。保護奨励する意図は国家鎮護であった。この目的のために官寺が建てられ、僧綱や度牒制度が導入され、また僧尼を管理する法律(僧尼令)が定められた。これにより僧侶は官僚としての身分が与えられ、国家安泰を祈祷することが第一の役割となった。当時、得度する者の才能や徳行は官司によって選ばれたが、出家者は学業を審らかにせず、多くは僧綱に出家を頼んで僧になっている。得度は在俗の仏教信者が仏門に入るための儀式であり、得度の儀を経た者は沙弥・沙弥尼と称され、そのあと受戒の儀を経て正式に僧・尼となる。得度すると度縁が授けられ、一般の戸籍からは名を削られて課役を免除される。このような状況のもと、課役逃れのために出家する者や、戒律などを無視して堕落していく者が多くなった。また、仏教が伝来したころから自分で授戒する自誓受戒が行われる等、授戒はその重要性が認識されていなかった。

仏教が益々盛んになり、大寺院が続々と出現し、修道者も漸く増えてくると、正式の僧侶の資格である比丘となる儀式が行われず、仏法の教えそのものである戒を学ぶにも師がいないということが大きな問題となった。このため元興寺の隆尊は、戒師と戒律の専門家を招聘することを、時の知太政官事舎人親王に願い出た。天平5(733)遣唐使が派遣される時、この船に乗って大安寺の栄叡・興福寺の普照の二人が遣唐使に伴われ、43日、難波津より出航した。授戒の師を求めるためである。…栄叡・普照は長安に十年留学したが、適当な伝戒師がなく帰国を決定し、鑑真和上の弟子の道抗を請じた。のちともに揚州に赴き、この地で道抗の師である鑑真和上に閲した。和上はこの時55才で、大明寺で宗僧のために戒律の講義を開いていた。ここで二人は和上に、日本への伝戒招請のことを伝えた。…」(「戒壇歴訪」p1012)

 

 

「その後五回の渡航に失敗し、幾多の困難支障を乗り越え、六回目にして天平勝宝5(753)1220日、遂に鹿児島県坊津に到着された。御年66才。栄叡・普照との初めての出会いから11年も経っていた。同26日、和上は太宰府を訪れ、初の授戒を行った。そして翌61月に平城京に到着して、聖武上皇以下の歓待を受け、孝謙天皇より戒壇の建立と授戒について一任され、東大寺に住することとなった。4月、和上は大仏殿前に戒壇を築き、上皇から僧尼まで430名に菩薩戒を授けた。併せて常設の戒壇院が東大寺に建立され、その後、天平宝字5(761)には、太宰府観世音寺と下野国薬師寺に戒壇が設置され、授戒制度が急速に整備されていった」(「戒壇歴訪」p1012)

そもそも「戒壇」とは、戒律を授ける(授戒)ための場所を指すのであるが、「戒壇」で授戒を受けることで出家者が正式な僧侶・尼として認められることになる。かくして奈良時代、唐より鑑真が招かれて戒律が伝えられ、戒律を守れるものだけが僧として認められることとなった。

さらに当時の日本では、僧の地位は国家資格であり、国家公認の僧となるための儀式を行う「戒壇」で授戒されない僧侶は、僧侶としてすら認められなかった。この日本仏教史の重要なポイントを見逃すべきではない。これを見逃すと、真実がわからなくなってしまうのである。

そもそも日本への仏教伝来以降、飛鳥・奈良地方に建立された南都六宗である法相宗(興福寺・薬師寺・法隆寺) 、倶舎宗(東大寺・興福寺) 、三論宗(東大寺南院) 、成実宗(元興寺・大安寺) 、華厳宗(東大寺) 、律宗(唐招提寺)の寺院とは、朝廷、天皇、皇族、公家・貴族が建てた、いわゆる「官寺」であり、僧の地位は国家資格であり、国家公認の僧となるための儀式を行う「戒壇」で授戒した官寺の僧侶のみが、朝廷から僧侶として認められたのである。

その後、平安時代に、朝廷公認の仏教は、伝教大師最澄が開いた天台宗と弘法大師空海が開いた真言宗の二宗が加わり、南都六宗とを加えて「八宗」と呼ばれるようになる。

当時の日本では、国家公認の僧となるための儀式を行う「戒壇」は、伝教大師最澄が朝廷の勅許で建立した大乗戒壇の比叡山延暦寺と、延暦寺以前からある日本三大戒壇である奈良・東大寺、筑紫・観世音寺、下野・薬師寺をはじめとする官寺の戒壇。日蓮宗本山・佐野妙顕寺49世斉藤日軌貫首の著書「日蓮宗の戒壇・その現代的意義」によれば、比叡山延暦寺の戒壇建立後は、延暦寺、園城寺の諍論により、永保元年(1081)に白河院の綸旨により園城寺に建壇された三麻耶戒壇、後醍醐天皇の文応年間に、延暦寺の戒壇を分壇した京都・北白川の元応寺、白河の法勝寺。鎌倉円噸宝戒寺、筑紫鎮仏寺、加賀薬師寺、伊予等妙寺の遠国四ヶ戒壇が、公認の戒壇に加わるとしている。臨済宗南禅寺派教学部が発行した「戒壇歴訪」によれば、

「鎌倉時代の叡尊が鑑真が伝えた律宗を学んで真言律宗を起こし、日本三戒壇や延暦寺の戒壇は実態を失ったとして、自ら仲間と共に東大寺において改めて授戒を行い、更に西大寺に独自の戒壇を創設した。以降、鎌倉新仏教も独自の得度・授戒の儀式を行うようになっていった」(「戒壇歴訪」p12)とある。

戒壇歴訪1
 

(臨済宗南禅寺派教学部発行「戒壇歴訪」)

根本中堂4


根本中堂2
 

(天台宗総本山・比叡山延暦寺)

9世日有4(諸記録)
 

(能勢順道氏の著書『諸記録』に載っている大石寺9世日有の肖像画)