□「信教の自由」の規定はカルト宗教保護、好き勝手放題、やりたい放題させる規定ではない

 

カルト宗教問題が国民の間で議論され、政治・行政でカルト宗教規制、カルト宗教規制立法をしようとすると、必ず憲法20条の「信教の自由」との関連が問題になってくる。又、殊更に問題化させようとする者が出現してくる。「カルト宗教」に指定される可能性大の宗教から、そうではない宗教団体関係者までが、憲法20条の「信教の自由」を楯にとって、カルト宗教取り締まり、カルト宗教規制、カルト宗教取り締まり立法に反対する者が出てくる。彼らの言い分は、カルト宗教取り締まり、カルト宗教規制、カルト宗教取り締まり立法そのものが、憲法20条の「信教の自由」に違反するものだ、というものである。本当にそうなのか。カルト宗教取り締まり、カルト宗教規制、カルト宗教取り締まり立法は、憲法20条の「信教の自由」に違反するものなのか。カルト宗教取り締まり、カルト宗教規制は、国民の権利である「信教の自由」を侵害するものなのか。答えは否である。

カルト宗教取り締まり、カルト宗教規制が「信教の自由」を侵害するなどという間違った議論は、創価学会、公明党といったカルト宗教側の言い分であるが、そもそも日本国憲法20条の「信教の自由」の規定は、カルト宗教を保護するためのものではなく、カルト宗教に好き勝手放題、やりたい放題させる規定でもなく、税金も支払わなくてもよいという規定ではない。当然のことである。

では信教の自由とは一体何なのか。これは過去の歴史の教訓を踏まえたものである。

政教分離を歴史上もっとも明確に打ち出した最初の事例はアメリカである。1791年に合衆国憲法修正第1条「合衆国議会は、国教を樹立、または宗教上の行為を自由に行なうことを禁止する法律…を制定してはならない。」が批准され、連邦政府としての国教は否定された。これはアメリカという新国家がイギリスにおいて宗教的に迫害された人々による「合衆国」であり、異なった宗教的背景を持った人びとによって構成されていたことが最大の原因だった。

フランスでは、フランス革命前においては、カトリック教会権力とフランス国王の王権が結びついており、民衆の日常生活にもカトリック教会権力とフランス国王の王権は深く介入、浸透していた。このため、フランス革命後の新政府はカトリック教会の影響力を政治や社会から排除。1789年のフランス人権宣言は第10条で信教の自由を謳っている。フランス第三共和制では、公教育機関の非宗教化がはかられ、1905年には教会と国家の分離に関する法律が成立している。

イギリスでは、1534年にヘンリー8世によって首長令が発布され、イングランド国教会が成立したが、その後、さまざまな宗教紛争を経て、1660年の王政復古後、イングランド国教会は公定宗教として復活。しかしその後もプロテスタントとカトリックの紛争、弾圧の歴史はつづき、1829年のカトリック教徒解放令によって、完全に信教の自由が認められた。

第一次世界大戦後のドイツでは教会が憲法制定国民議会に圧力をかけ、1919年に成立したワイマール憲法では、国教の存在は否定したものの、カトリックとプロテスタント領邦教会に「公法上の社団」の地位を与え、教会税の徴収、宗教教育の保障などの特権が認められ、それと同時に国民の信教の自由が保障され、他の宗教団体にも教会同様の権利が与えられる可能性が示された。

 

 

□政治と宗教が分離され国民の宗教への入信、脱退、入信拒否が保障されるのが信教の自由だ

 

日本においては、大日本帝国憲法第28条において「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」と定めた。しかし神道は「神社は宗教にあらず」といって実質的に国教化され、国家神道とよばれた。戦後日本における信教の自由、政教分離の原則は、日本を占領していたアメリカなどの連合国総司令部 (GHQ) が、1945(昭和20)年1215日に日本国政府に対して神道を国家から分離するように命じた神道指令がその始まりである。そして、194611日の昭和天皇の神格否定宣言、国家神道解体へとすすんでいった。憲法制定過程では松本委員会案において、すでに神社の特典を廃止するとして記載されている。

こういう歴史を見ると、ヨーロッパでは国王の政治権力と教会が一体になり、あるいは国王とローマカトリック教会の法皇が一体になり、国民に単一の宗教の信仰を押しつけ、他宗派を権力で弾圧したという苦い歴史があった。あるいは国王が、単一の宗教を国教にして国民に信仰を押しつけたり、国王が教会や宗教の名を以て圧政を行った苦い歴史もあった。だから国家権力による宗教の信仰への介入を排除する「信教の自由」、国王の政治権力と教会を分離する「政教分離」の原則が、人類の智慧として生まれたのである。日本でも明治維新以降、第二次世界大戦終戦まで、国家神道が実質的な国教になり、戦争の戦没者も、国家が靖国神社に「神」として祀った。戦後の日本国憲法20条の「信教の自由」の規定は、神道を国家から分離することに大きな目的があったと言えよう。かくして国家・国王・政治権力が、国民の信仰に介入したり、国民に宗教を強制することは、国民一人一人が宗教・信仰を選択する権利、入信を拒否する権利、宗教をやめて脱退・脱会する権利を侵害することは明らかである。だから近代民主主義社会において、政治と宗教、国王権力と教会は分離され、国民の宗教への入信、脱退、入信拒否が保障される政教分離、信教の自由が定められるのが一般的である。信教の自由を保障した法典の例としては

313年にローマ皇帝コンスタンティヌス1世とリキニウスが連名で発布したとされるミラノ勅令

1215615日に制定されたイギリスの大憲章・マグナカルタ

1839年にアブデュルメジト1世治下のオスマン帝国で発布されたギュルハネ勅令

「帝国住民は全て、ムスリムも非ムスリムに関わらず生命、名誉、財産が保障される」との条文

19481210日の第3回国際連合総会で採択された世界人権宣言

「第18条 すべて人は、思想、良心及び宗教の自由に対する権利を有する。この権利は、宗教又は信念を変更する自由並びに単独で又は他の者と共同して、公的に又は私的に、布教、行事、礼拝及び儀式によって宗教又は信念を表明する自由を含む。」との条文

19661216日、国際連合総会によって採択された多数国間条約である市民的及び政治的権利に関する国際規約

「第18条 すべての者は、思想、良心及び宗教の自由についての権利を有する。この権利には、自ら選択する宗教又は信念を受け入れ又は有する自由並びに、単独で又は他の者と共同して及び公に又は私的に、礼拝、儀式、行事及び教導によってその宗教又は信念を表明する自由を含む。」との条文がある。

日本国憲法1
 

(日本国憲法)

明治憲法改正案1
 

(大日本帝国憲法改正案)

大日本帝国憲法1
 

(大日本帝国憲法)