■検証20・日蓮正宗大石寺に「日蓮の遺骨・日蓮の墓」は存在しない20

 

□日蓮宗が発行している正式文献で公式に認めている本覚寺への日蓮真骨の分骨の史実

 

日蓮の「遺骨」「正墓」「御廟」の第五に挙げなくてはならないのは、日蓮宗本山・鎌倉本覚寺である。京都妙伝寺が「西之身延」とか「関西身延」と呼ばれているのに対して、「東身延」「東之身延」と呼ばれているのが、日蓮宗本山・鎌倉本覚寺。鎌倉本覚寺とは、佐渡流罪を赦免になった日蓮が、身延山に旅発つまでの間、約40日間留まっていた所として伝承されている寺院。日蓮宗新聞社発刊の「日蓮宗本山めぐり」によれば、日蓮は文永11(1274)326日、陸路にて鎌倉に到着。日蓮が滞在したのは、源頼朝が鎌倉幕府を開いた時、守護神を祀った「夷堂」(えびすどう)で、これが本覚寺の前身。日蓮は48日、鎌倉幕府・評定所に召喚され平頼綱と対面。第三の国諫を行ったが聞き入れられず、「三度諫むるに用いずは山林に交われ」との故事にしたがって、512日に鎌倉を出発。身延山へと向かった。

なぜ鎌倉本覚寺が「東身延」とよばれているのかというと、室町時代に身延山久遠寺から日蓮真骨がここに分骨されて、今日に至るまで格蔵されていることによる。本覚寺に身延山久遠寺の日蓮真骨が分骨されたことは、「日蓮宗本山めぐり」や日蓮宗宗務院発行「創価学会批判」といった日蓮宗の正式文献に載っている。ではなぜ本覚寺に日蓮真骨が分骨されることになったのか、ということですが、日蓮宗新聞社発刊の「日蓮宗本山めぐり」によれば、次のように書いてある。

(本覚寺の)創立は1436(永享8)年。身延門流の日出上人は伊豆の三島開教の後、同年に鎌倉の天台宗宝戒寺・心海と法論して勝った。(永享問答)しかしときの鎌倉御所・足利持氏の怒りを買い、法難の危機に瀕したが、逆に帰依を得て当地を拝領。本覚寺を創建した。

二世日朝上人は1461(寛正2)年に身延山11世となって祖山を大復興。当山(本覚寺)に日蓮聖人のご分骨を奉安。以来、『東身延』と称されるようになった。日朝上人は眼病救護の誓願を立てられたので、後に霊験あらたな『日朝さま』とよばれ、信仰を集めるようになった」(p32)

つまり本覚寺2世日朝が、のちに身延山久遠寺11世法主として晋山したため、本覚寺に日蓮真骨が分骨された、ということである。本覚寺は日蓮宗本山ということだが、私がこの寺院を訪れた感じとしては、そんなに広くない印象を持ちました。寺院の受付では僧侶がお守りやお札を売っていました。本覚寺の本堂は十軒四面の堂宇で、大正12(1923)の落成となっている。

本覚寺の堂宇は、本堂の他に、ご分骨堂、客殿、庫裡等がある。

日蓮宗寺院の堂宇は、本尊である釈迦如来像を祀る本堂と日蓮祖師像を祀る祖師堂の二堂あるのが通例ですが、ここ本覚寺には祖師堂の名前の堂宇がない。

祖師堂はありませんが、そのかわりに「御分骨堂」があるわけで、ここが祖師堂のかわりの役目を果たしている、ということなのだろうか。

しかし「御分骨堂」は、普段は入り口の扉が堅く閉められていて、中に入ることが出来ない。

本覚寺5分骨堂


本覚寺6分骨堂
 

(日蓮宗本山・鎌倉本覚寺)