■検証172・大石寺の「戒壇大本尊」が大石寺9世日有の偽作である16の証拠27

 

□「戒壇大本尊」大石寺9世日有偽作の証拠4-1・大石寺独自の「事の戒壇」が大石寺9世日有の代に初めて登場する(新池抄聞書)

 

日蓮正宗大石寺9世法主日有が「戒壇の大本尊」なる板本尊を偽作したとする証拠として第四に挙げなくてはならないのは、大石寺9世日有が偽作・発明した大石寺独自の「事の戒壇」が、まさに大石寺9世日有の代にはじめて登場するということである。大石寺9世日有が言う「事の戒壇」とは「戒壇の大本尊」なる板本尊が祀られている堂宇・伽藍という意味である。日蓮の題目、本尊、戒壇の「三大秘法」は、本尊中心ではなく題目中心であるが、それを大石寺9世日有が、

「いくら題目をあげても、大石寺の本尊を拝まなければダメ。大石寺の本尊を拝んでいても、大石寺の『戒壇の大本尊』に参詣しなくてはダメ」というふうに、「戒壇の大本尊」なる板本尊を題目、本尊、戒壇の「三大秘法」の中心に持ってきて、戒壇中心、本尊中心の「三大秘法」という、日蓮遺文(御書)に説かれている「三大秘法」「事の戒壇」とは全く別個の、大石寺9世日有独自の「三大秘法」「事の戒壇」なるものを発明。大石寺を根本・根源の「事の戒壇」と定義づけた。

日蓮正宗大石寺の歴代法主は、大石寺九世日有の前までは、誰一人として、三大秘法・事の戒壇・「戒壇の大本尊」を意味する用語を使っていないばかりか、三大秘法・事の戒壇・「戒壇の大本尊」の教義の説法をしていた形跡すら見当たらない。日蓮正宗大石寺門流では、大石寺9世日有の前までは、三大秘法・事の戒壇・「戒壇の大本尊」を掲げてそれを宗旨の根本の教義に位置づける動きは全くなかった。それが大石寺9世日有が「戒壇の大本尊」なる板本尊を偽作して、その板本尊を格蔵する大石寺宝蔵を「事の戒壇」と定義づけた。「戒壇の大本尊」なる板本尊が祀られている場所=「事の戒壇」であるのだから、「戒壇の大本尊」なる板本尊と、「事の戒壇」は、全く表裏一体であるということ。つまり「戒壇の大本尊」なる板本尊=「事の戒壇」なのである。

つまり大石寺9世日有の代になって、はじめて日蓮正宗大石寺門流に「戒壇の大本尊」なる板本尊を格蔵する堂宇を「事の戒壇」と定義する教義が出てきたこと自体、「戒壇の大本尊」なる板本尊が大石寺9世日有によって偽作されたことを証明する証拠ということになる。その大石寺9世日有の代になって、はじめて大石寺門流に「戒壇の大本尊」なる板本尊を格蔵する堂宇を「事の戒壇」と定義する教義が出てきたことを証明する文献が、保田妙本寺・小泉久遠寺11代貫首・日要(14361514)が、大石寺9世日有から聞いた説法を弟子に語っていた内容を日果という僧侶が筆録した文書「新池抄聞書」である。そこにはこんな文が載っている。

「日有云く、また云く、大石は父の寺、重須は母の寺、父の大石は本尊堂、重須は御影堂、大石は本果妙、重須は本因妙、彼は勅願寺、此は祈願寺、彼は所開、此は能開、彼は所生、此は能生、即本因、本果、本国土妙の三妙合論の事の戒壇なり」

(『新池抄聞書』/日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨の著書「富士日興上人詳伝・下」p84)

 

 

大石寺九世日有が発明した「戒壇大本尊を安置している本堂が事の戒壇」との「事の戒壇」義

 

-----かつて日有上人がこのように説法していた、と日要上人が語っていた。大石寺は例えて言えば父親のような本山寺院であり、重須の北山本門寺は、例えて言えば母親のような本山寺院である。父親の本山寺院である大石寺には、「本門戒壇の大御本尊」を安置している本尊堂があり、母親の本山寺院である北山本門寺には、日蓮大聖人の木像(御影)を安置している御影堂がある。……此の大石寺は、衆生を成仏に導く根本の寺であり、即ち、「本門戒壇の大御本尊」を安置している本尊堂がある大石寺こそ、本因、本果、本国土妙の三妙合論の事の戒壇なのであり、根本の寺院・道場なのである。-------

わかりにくい古文は、だいたい上記のような意味になる。つまり日有は、「戒壇の大本尊」がある大石寺のほうが、開祖・日興が晩年住み、死去した北山本門寺よりも優越した根本の寺であると語っていたのである。「戒壇の大本尊」なる名前の板本尊を祀っている堂宇である「事の戒壇」という名前が、ここで具体的に、かつ、歴史上はじめて日蓮正宗大石寺に忽然と登場する。これは日蓮正宗が認める古文書に載っているものとして、日有による「戒壇の大本尊」なる板本尊偽作の、明確な文献的証拠と位置づけられる。又、この「新池抄聞書」という文書は、日蓮正宗大石寺9世法主日有が「戒壇の大本尊」を偽作したという文献的証拠ということに止まらず、大石寺9世日有が日蓮正宗大石寺門流で歴史上はじめて大石寺を「事の戒壇」と定義付けたことについても証拠となる、非常にウエイトが高い文書なのである。

さらに「新池抄聞書」という文書は、大石寺9世日有の代に、すでに大石寺に「勅使門」(不開門)が存在していたことを示す、文献的な証拠でもあるのである。それは文中、大石寺と北山本門寺について「彼は勅願寺、此は祈願寺」と言っていることである。歴史的史実としては、大石寺も北山本門寺も、勅願寺になっていなければ、祈願寺にもなっていない。しかし検証48・検証49で論じたように、大石寺の庫裡・客殿・書院・勅使門・宝蔵の並び方は、実際の勅願寺である京都・妙顕寺とそっくりである。勅願寺ということであれば、天皇の勅使を迎えるための勅使門を建てるのは通例であり、「新池抄聞書」の文は、この当時、すでに大石寺に勅使門が存在していたことを示す文ということになる。もちろんその勅使門を大石寺に建てたのは、京都天奏に行った大石寺9世日有である。さらに言うと、「彼は勅願寺、此は祈願寺」の文は、京都天奏から帰った大石寺9世日有は、「大石寺が勅願寺になった」と偽って、勅使門を建てたことを示唆している。そう言わざるを得ないほど、大石寺法主自らが京都天奏に旅立ったと言うことは、それほど大石寺門流にとって重大な出来事だったということに他ならない。

新池抄聞書1

新池抄聞書3
 

(堀日亨が正文書と認めて「富士日興上人詳伝」に載せている「新池抄聞書」)

59世日亨2
 

(大石寺59世堀日亨)

9世日有4(諸記録)
 

 

(能勢順道氏の著書『諸記録』に載っている大石寺9世日有の肖像画)

戒壇大本尊1大正4年由井本1
 

(大石寺の『戒壇の大本尊』)

由井御影堂2
 

(約五百年以上も「戒壇の大本尊」を格蔵してきた大石寺宝蔵・由井一乗写真集「日蓮大聖人」より)

戒壇大本尊2大正4年由井本2
 

(大正時代に大石寺御影堂で行われていた「戒壇の大本尊」開扉・由井一乗写真集「日蓮大聖人」より)