■検証36・大石寺に「徳川幕府6代将軍家宣正室・天英院の正墓」は存在しない2

 

□徳川幕府六代将軍家宣の正室・天英院の正墓は浄土宗大本山・東京芝・増上寺にある

 

徳川幕府6代将軍家宣正室・天英院の正墓は大石寺にはない、ということになると、では天英院の正墓は一体どこにあるのか。天英院の正墓は、浄土宗大本山・東京芝・増上寺にある。徳川家とは三河国(今の愛知県)出身の大名で、徳川家康は三河国大名だったころ、駿河国の戦国大名・今川義元の人質になっていたのは有名な話しである。三河国時代の徳川家の菩提寺は今も存在していて、それが愛知県岡崎市の浄土宗寺院・大樹寺である。正式には成道山松安院大樹寺と称する。この大樹寺という寺院は、徳川氏(松平氏)の菩提寺であり、松平家歴代当主の墓があり、徳川幕府歴代将軍(大樹公)・初代家康から十四代家茂までの等身大の位牌が祀られていることで有名である。徳川家の菩提寺は、三河国時代から浄土宗寺院であり、徳川家康が江戸に入夫してからも、徳川家の菩提寺は、浄土宗大本山・増上寺だった。増上寺には徳川正廟があり、ここに埋葬されているのは、二代将軍秀忠、六代将軍家宣、七代将軍家継、九代将軍家重、十二代将軍家慶、十四代将軍家茂の6人の将軍、5人の正室、5人の側室。徳川六代将軍正室・天英院も、将軍家宣といっしょに埋葬されており、正墓もここ増上寺にある。天英院とは本名を近衛熙子といい、父は近衛基熙、母は後水尾天皇の娘・品宮常子内親王。夫・六代将軍家宣の死後落飾して天英院(てんえいいん)と名乗ったため、一般的に天英院と呼ばれている。

天英院という名は、一般的には江戸時代大奥の一大事件「江島生島事件」で有名である。

江島生島事件とは、江戸時代中期に江戸城大奥御年寄の江島(絵島)が歌舞伎役者の生島新五郎らを相手に遊興に及んだことが引き金となり、関係者多数が処罰された綱紀粛正事件。

家宣が六代将軍になった後、お喜世の方(のちの月光院)が側室に迎えられたことによって、夫婦関係は疎遠になっていったという。お喜世の方(月光院)が産んだ家継が七代将軍宣下を受け、月光院とは不仲であったといわれている。御年寄にして月光院の腹心であった絵島が大奥の門限に遅れた江島生島事件では、老中や譜代大名と結託して、月光院と側用人・間部詮房と新井白石らの権威失墜を謀ったという天英院陰謀説がある。当時の大奥には、7代将軍家継の生母月光院を中心とする勢力と前将軍家宣の正室天英院を中心とする勢力とがあった。月光院が家継の学問の師である新井白石や側用人の間部詮房らと親しい事から、大奥では月光院側が優勢。

この事件により天英院側が優勢となり、2年後の正徳6年(1716年)に七代将軍家継が亡くなると、若い家継に子がなかったため、天英院が推していた紀伊藩主徳川吉宗が8代将軍となった。

そのため、江戸幕府を牛耳っていた新井白石・間部詮房を追放するために天英院と譜代大名や老中がスキャンダルをでっち上げたのではないかという陰謀説が唱えられている。

 

 

□徳川将軍家の菩提寺が浄土宗なのに将軍の正室が大石寺を信仰するなどあり得ない話しだ

 

さて天英院に関しては、日蓮正宗が「天英院は大石寺門流の信者だった。大石寺に三門を供養した大石寺外護の大檀那」と言い張っている。が、大石寺三門は徳川幕府が供養したのであって、天英院個人が大石寺に供養したのではない。幕府が大石寺に三門を供養した当時の将軍が六代家宣で、その正室が天英院であったため、こんな「こじつけ」を言っているにすぎない。

フリー百科事典・Wikipediaによれば、家宣との間に2人の子供を儲けたが、いずれも幼くして死去する。いずれの子供も徳川家とは別に日蓮正宗常泉寺にて戒名を授かったという。常泉寺にも、天英院が感得したという「日仙授与本尊」と称する曼荼羅があるなどしているが、本当に日蓮正宗大石寺ないしは常泉寺の信者だったかどうかは不明である。江戸時代に将軍正室が戒名を授かったとか、曼荼羅を奉納したとか、なにがしかの供養をしたから、といって、その寺院の信者だったとは言えない。その証拠に、日蓮正宗とて、昭和になってからも、大石寺62世鈴木日恭法主が皇室に大曼荼羅常住本尊を下付しており、大石寺の信者ではない身分の高貴な人物に大曼荼羅を下付している。

そうであるにもかかわらず、日蓮正宗では、天英院を江戸時代に大石寺に大きな貢献をした大篤信の外護者であるかのように言っているが、我田引水、こじつけも甚だしいと言わねばなるまい。

さらに日蓮正宗では、天英院が日蓮真筆曼荼羅と称する「日仙授与本尊」を感得したとして、この曼荼羅本尊を東京向島・常泉寺が格蔵しているとしている。しかしこの曼荼羅本尊は、大石寺59世堀日亨は「富士宗学要集」8巻に載せているが、立正安国会発刊「日蓮御本尊集」には載っていない。実際に曼荼羅の写真等もないたる、真偽を判定することが出来ず、真偽未決である。

日蓮正宗では、天英院を大石寺の大外護者・大信者であると言っているが、しかしながら六代将軍家宣の正室・天英院の正墓は、大石寺ではなく、東京芝・増上寺にある。あたりまえのことである。天下の徳川将軍家の菩提寺が、浄土宗の江戸・増上寺、三河・大樹寺であるのに、将軍の正室・御台所が大石寺を信仰するなど、あり得ない話しである。最初から天英院が葬られたのは、徳川将軍家の菩提寺である増上寺であって、大石寺ではない。これは動かしがたい事実である。

一般的道理として考えても、将軍の正室が葬られるのは、菩提寺の増上寺であって、大石寺ではないことは明らか。これをあたかも、天英院が大石寺に葬られているかのように言う日蓮正宗の宣伝は全くの虚偽である。私も実際に、増上寺にあるという天英院の正墓を実際に見て調査して見たかったが故に、徳川将軍家廟特別公開の時に見学に行っている。

増上寺5家宣廟


増上寺4家宣廟


増上寺6徳川家廟
 

(増上寺の家宣・天英院正墓)

増上寺31三門
 

(東京芝・増上寺)

大樹寺7


大樹寺6
 

(愛知県岡崎市の大樹寺)