■検証38・大石寺に「徳川幕府13代将軍家定正室・天璋院の正墓」は存在しない1

 

□日蓮正宗が「大石寺の信仰をしていた」と称している天璋院篤姫の墓所がある寛永寺

 

大石寺「ニセ墓」の欺瞞は、他にもゴロゴロたくさんある。日蓮正宗では、薩摩藩島津家の一門に生まれ、島津本家の養女となり、五摂家筆頭近衛家の娘として徳川家に嫁ぎ、江戸幕府第13代将軍徳川家定御台所となった天璋院(てんしょういん)篤姫(1836年~1883年)が日蓮正宗の信仰をしていたと言うが、これも真っ赤なウソ。徳川将軍家の菩提寺は浄土宗の東京芝・増上寺と天台宗の東京上野・寛永寺であり、天璋院篤姫の墓所は菩提寺の寛永寺にある。天璋院篤姫は、寛永寺の五代将軍徳川綱吉の廟の中にいっしょに葬られているのであり、大石寺には葬られていない。天璋院篤姫は最初から大石寺の信仰はしていない。天下の徳川将軍家の菩提寺が、浄土宗の江戸・増上寺、三河・大樹寺、天台宗の東京上野・寛永寺であるのに、将軍の正室・御台所が大石寺を信仰するなど、あり得ない話しである。では、天璋院篤姫が大石寺の信仰をしていたなどという話しは、一体、どこから出てきた話なのか。天璋院篤姫が、大石寺の信仰をしていたなどという証拠は、どこにもない。では天璋院篤姫とは、一体、どういう人物なのか。まずフリー百科事典・Wikipediaの記述から

「天璋院」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%92%8B%E9%99%A2

天璋院(てんしょういん) / 篤姫(あつひめ、天保61219日(183525日) - 明治16年(1883年)1120日)は、江戸時代後期から明治の女性で、薩摩藩島津家の一門に生まれ、島津本家の養女となり、五摂家筆頭近衛家の娘として徳川家に嫁ぎ、江戸幕府第13代将軍徳川家定御台所となった人物。実父は薩摩藩主島津家の一門・今和泉(いまいずみ)領主・島津忠剛。母は島津久丙の娘・お幸。薩摩藩9代藩主・島津斉宣の孫である。

幼名は一(かつ、もしくは、いち)。本家当主で従兄・島津斉彬の養女になり本姓と諱は源 篤子(みなもと の あつこ)に、近衛忠煕の養女となった際には藤原 敬子(ふじわら の すみこ)と名を改めた(この際に篤の名は君号となり、篤君(あつぎみ)となった)。」

「天保61219日(183525日)、今和泉島津家の当主・島津忠剛の長女として生まれる。嘉永6年(1853年)、従兄である薩摩藩主・島津斉彬の養女となり、同年821日に鹿児島を陸路出立し熊本を経由して江戸藩邸に入る。渋谷の藩邸から江戸城までの輿入れは先頭が城内に到着しても最後尾は依然、藩邸にいたという。 安政3年(1856年)に右大臣・近衛忠煕の養女となり、その年の11月に第13代将軍・徳川家定の正室となり、年寄の幾島を伴って大奥に入った(輿入れの経緯・詳細については後述)。なお、家定に嫁いで以降、生涯を通して故郷・鹿児島に戻ることは無かった。しかし安政576日(1858814日)に家定が急死し、同月16日(824日)には斉彬までもが死去してしまう。篤姫の結婚生活はわずか19ヶ月であった。家定の死を受け篤姫は落飾し、戒名は天璋院殿従三位敬順貞静大姉、通称天璋院と名乗る。同年12月、従三位に叙位。」

 

 

□江戸幕府第13代将軍徳川家定御台所・天璋院篤姫は最初から大石寺の信仰はしていない

 

寛永寺にも天璋院篤姫の略歴を記した掲示がある。天璋院に関する一般的な見解とは、そう大差がないように思われる。

天璋院篤姫についての寛永寺の見解をまとめると、概ね次のようになる。

天保六年(1835)1219日 島津忠剛の長女として生まれる。

嘉永六年(1853) 島津本家28代島津斉彬の養女になる。名を篤姫と改めて鶴丸城(鹿児島城)に入る。

安政三年(1856) 近衛家の養女になり、名を敬子と改め徳川13代将軍家定の正室として輿入れする。しかし輿入れからわずか2年後の安政5(1858)に、将軍家定が死去。落飾して天璋院と号する。

明治16(1883年)11月 49才で死去。

天璋院の墓所は、徳川五代将軍綱吉の霊廟内、家定の墓所の隣にある。宝塔の脇には、好物であった、びわの木が植えられている。

では天璋院篤姫が大石寺の信仰をしていたとする日蓮正宗側の見解はどうかというと

「親元の島津家が大石寺の信仰をしていた」とか、あるいは一時的に養女になった「右大臣・近衛忠煕の一族が大石寺の信仰をしていた」などと言う。本当にそうなのか。

薩摩藩主・島津家の菩提寺は大石寺ではなく、玉竜山福昌寺という曹洞宗の大寺院である。

これは応永元年(1394)、島津7代当主・島津元久が一族出身の僧・石屋真梁を開山として建立。その後、代々の島津氏当主の墓が建てられ、島津本家の菩提寺になる。江戸時代の「三国名勝図会」によると、この玉竜山福昌寺は大伽藍が立ち並ぶ南九州屈指の大寺院で、最盛期には約1500人もの僧侶が住していたという。しかし明治維新の廃仏毀釈により破壊され、現在は歴代島津氏当主の墓地群のみが残っている。

福昌寺 (鹿児島市)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E6%98%8C%E5%AF%BA_%28%E9%B9%BF%E5%85%90%E5%B3%B6%E5%B8%82%29

したがって、島津家が大石寺の信仰をしていたなどということは、絶対にあり得ない。

では近衛家が大石寺の信仰をしていた、という話しはどうか。これも怪しい話しである。そもそも天璋院篤姫が、近衛家の養女になったのは、徳川将軍家の正室になるにあたって、公家から輿入れするという身分を整えるために、そのようにしたのであって、実際に近衛家に入って生活をしていたわけではない。仮に近衛家が大石寺の信仰をしていたとしても、天璋院篤姫が大石寺の信仰をしていたことにはならない。大石寺の言うことは、まことにインチキな話しが多いのである。

寛永寺16篤姫墓案内


寛永寺17篤姫墓案内


寛永寺15篤姫墓案内


寛永寺18篤姫墓案内
 

(東京上野・寛永寺の天璋院篤姫墓所案内)