■検証93・百六箇抄が大石寺9世日有の偽作である証拠・「鎌倉殿より十万貫の御寄進」文

 

□「十万貫」で日蓮に「戒壇大本尊」造立可能な経済力があったと詐称を企てた大石寺9世日有

 

「百六箇抄」を偽作したのは一体誰なのか。これを解明する重大なポイントの第四が、「百六箇抄」の本文中にある「鎌倉殿より十万貫の御寄進」を説いた文である。「百六箇抄」の中に

「鎌倉殿より十万貫の御寄進有りしを縁と為して諸所を去り遁世の事・甲斐国三牧は日興墾志の故なり」(大石寺59世堀日亨編纂『富士宗学要集』1p22)

百六箇抄8(十万貫・日目大導師)

という文が書いてある。鎌倉幕府と厳しい対立関係にあった日蓮が、鎌倉殿、つまり鎌倉幕府の将軍、ないしは鎌倉幕府そのものから十万貫の寄進を受けるなどと言うことはあり得ない話である。この記述が史実に反するものであることは、『富士宗学要集』を編纂した大石寺59世堀日亨も認めていることで、大石寺59世堀日亨自ら

「十万貫なんという途方もない厚遇ができようはずがない」

「かくのごとき漫筆をたくましゅうするから、塩尻なんどに漫罵せられて宗祖の顔に泥を塗ることになる」「いわんや十万貫なんど突拍子もないことは、大聖を愚弄するもはなはだしいものであるが、一般はこんな馬鹿げたことが好物らしい」(大石寺59世堀日亨の著書『富士日興上人詳伝』p6162)と述べて、強く否定しているくらいである。そういう史実に反する記述を、どうして大石寺9世日有は、「相伝書」と自称している「百六箇抄」の中に書いたのか。

それは「戒壇の大本尊」なる板本尊を造立するには、大きな経済力が必要で、それは「戒壇の大本尊」なる板本尊を偽作した大石寺9世日有が一番よく知っていたからである。しかし身延山の山中で極貧の生活をしていた、鎌倉時代の日蓮には、「戒壇の大本尊」なる板本尊を造立できる経済力もなければ、技術力もなかった。「戒壇の大本尊」なる板本尊を偽作した大石寺9世日有は、これを「日蓮が造立した」と詐称しているわけだから、日蓮に「戒壇の大本尊」が造立できる経済力があったことにしなくてはならない。つまり「身延山の山中で極貧の生活をしていた」鎌倉時代の日蓮と、「戒壇の大本尊」を造立できる経済力のギャップを埋め合わせるためのものが、「百六箇抄」の「鎌倉殿より十万貫の御寄進有りしを縁と為して諸所を去り遁世の事・甲斐国三牧は日興墾志の故なり」の文なのである。つまり、「鎌倉殿より十万貫の御寄進」があったから、日蓮には「戒壇の大本尊」なる板本尊を造立できる経済力があった、ということを詐称しようとしたわけである。

十万貫というと、金1両=4000文=4貫文と計算すると、何と金25000両にもなる大金である。こんな大金を、いくら何でも、鎌倉幕府が日蓮に寄進するはずがない。

 

 

□堀日亨「この付記は相伝書以後二百年は下るまい」文は大石寺9世日有偽作をが認めている

 

堀日亨も、さすがに「鎌倉殿より十万貫の御寄進」を否定せざるを得なかったわけだが、その堀日亨が、「鎌倉殿より十万貫の御寄進」の文がいつ頃書かれたかについて、興味深いことを言っている。それは「この付記は相伝書以後二百年は下るまい」(大石寺59世堀日亨の著書『富士日興上人詳伝』p61)と言っていることだ。「相伝書以後二百年」というのは、「百六箇抄」が成立した年だと日蓮正宗が詐称している1280(弘安3)年から数えて200年ということ。そうすると1480(文明12)年ということになる。「下るまい」ということは、1480(文明12)年以前ということになるが、大石寺9世日有は1419年から1482年まで足かけ64年、法主ないし隠居法主として大石寺の最高指導者として君臨していた人物。堀日亨の「この付記は相伝書以後二百年は下るまい」の文は、実質的に大石寺9世日有が書いたものだと認めているに等しい。つまり実質的に大石寺59世堀日亨は、「百六箇抄」が大石寺9世日有の偽作であると認めているということである。

「戒壇の大本尊」なる板本尊を偽作・造立するには、膨大な費用がかかり、「戒壇の大本尊」なる板本尊を偽作・造立する者は、大きな経済力・財力を持っていなくては不可能である。大石寺9世日有は、甲州・湯之奥金山の金の経済力を持っていたが故に、「戒壇の大本尊」なる板本尊を偽作・造立できた。しかし、身延山中で極貧生活を送っていた日蓮には、「戒壇の大本尊」造立は不可能だった。「経済力」は大石寺9世日有偽作を説き明かす鍵であり、証拠である。

□湯之奥金山の金の経済力で「戒壇の大本尊」なる板本尊を偽作した日有

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/10033804.html

□豊富な金を産出していた甲州・湯之奥金山の概要

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/10107260.html

□湯之奥金山の掘間を所有・操業・経営していた金山衆は大半が富士門流信者だった

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/10272657.html

□高度な金加工技術を持っていた湯之奥金山の金山衆

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/10272994.html

□湯之奥金山の金山衆たちは富士門流の信者が多かった

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/10273539.html

□日有の時代には法華の信者は大石寺にも北山本門寺にも参詣していた

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/10273909.html

15世紀前半には金の生産をしていた湯之奥金山

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/10274529.html

□日有の時代にもあった金山発見にともなうゴールドラッシュ

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/10275284.html

□大石寺~朝霧高原~中山金山入口~湯之奥~下部温泉~有明寺を結ぶルートの存在

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/10275907.html

□日有が大石寺と有明寺の往復に河内路(身延道)を使うはずがない

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/10276261.html

□大石寺9世日有は黒漆、金箔加工を施す経済力を充分に持っていた

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/15400201.html

□甲州・湯之奥金山の金の経済力がなければ不可能だった大石寺9世日有の地方巡教

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/33110653.html

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/33111998.html

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/33123313.html

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/33175280.html

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/33175649.html

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/33176534.html

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/33402308.html

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/33402517.html

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/33402691.html

□大石寺9世日有は甲州湯之奥金山の莫大な経済力を保持し経済的基盤を持っていた

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/44640148.html

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/44640183.html

□湯之奥金山の金による大きな経済力で「戒壇大本尊」を偽作した大石寺9世日有

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/44640297.html

59世日亨2
 

(大石寺59世堀日亨)

百六箇抄1
 

(1936(昭和11)堀日亨編纂『富士宗学要集』に載っている「百六箇抄」)

9世日有4(諸記録)
 

(能勢順道氏の著書『諸記録』に載っている大石寺9世日有の肖像画)