■検証216・大石寺の「戒壇大本尊」が大石寺9世日有の偽作である16の証拠71

 

□日蓮正宗大石寺9日有の時代の大石寺門流には「法華講」が存在していた

 

大石寺の「戒壇の大本尊」が大石寺9世日有の偽作である16の証拠の第12は、「大石寺9日有の代には『法華講』が存在していた」ということである。大石寺59世堀日亨が編纂した「富士宗学要集」第8巻の「漫荼羅脇書等」の欄には、大石寺の「戒壇の大本尊」の脇書に

「右現当二世の為に造立件の如し、本門戒壇の願主弥四郎国重、法華講衆等敬白、 弘安二年十月十二日」

と記されていると書いてあるが、日蓮が生きていた時代には、「法華講」もなければ「法華講衆」もなかった。「法華講」というものは、名前も実体も全く存在せず、この脇書きがあること自体、日蓮の真筆ではなく、後世の偽作である証拠のひとつであると論じた。それでは、大石寺9世日有の時代には、日蓮正宗大石寺一門の信者の「法華講」や「法華講衆」は存在していたのか、ということになる。結論から言うと、もちろんあった。これが「戒壇の大本尊」大石寺9世日有偽作を証する証拠の第12である。

日蓮正宗大石寺の法主で、はじめて「法華講衆」という言葉を使ったのは、大石寺の開祖・日興である。これは1323(元亨3)622日、日興が佐渡国の信者衆たちに宛てた手紙の中で「佐渡国法華かうしう」(佐渡国法華講衆)と書いたのが最初である。大石寺法主が自ら書写した大漫荼羅本尊の脇書きに「法華講衆」という名前を書き記したのは、大石寺六世日時である。これは1404(応永11)6月に、日蓮正宗大石寺六世法主・日時が書写した大漫荼羅本尊の脇書きに

「奥州柳目法華講衆等達現当二世の為なり」(堀日亨編纂『富士宗学要集8巻』より)

と書いたのが最初である。

また大石寺六世日時は、1403(応永10)4月に書写した大漫荼羅本尊を「大石寺檀那小泉講」に対して授与する脇書きを書き残している。(堀日亨編纂『富士宗学要集8巻』より)

ここの「檀那」とは信者のことで、「小泉」とは、今の富士門流本山寺院・小泉久遠寺がある富士宮市小泉のあたりと推測され、すでに大石寺六世日時の時代には、大石寺周辺に信者を束ねる「講中」があったことがわかる。もともと社寺の「講」というものは、室町時代、新仏教系の浄土真宗、時宗、日蓮法華宗や熊野信仰、伊勢信仰などが民衆のあいだに深く根をおろしたことによって、社寺巡礼、社寺参詣、熊野参詣、伊勢参詣のために、一般民衆が「伊勢講」のような形で講を結んで、旅費の捻出を計画したことによるものだという。(一橋大学教授・永原慶二氏の著書「日本の歴史10・下克上の時代」より)たとえば伊勢講は、公家の山科教言の1407(応永14)年の日記などにもあらわれており、当時は広い社会層に行われていたようだ。

 

 

□大石寺六世日時は奥州柳目法華講衆・大石寺檀那小泉講に曼荼羅を授与していた

 

「講」というものは、この室町時代には、頼母子講という金銭調達のための民衆の共同組織として農村に広く見られ、伊勢講・熊野講などはそのひとつの形態といえるものである。

日蓮正宗大石寺一門においても、もともと佐渡国(新潟県佐渡島)といった地方で「佐渡国法華講」といった「講」ができていっていることからして、その趣旨は、伊勢講や熊野講などと同じものと考えられる。そして日蓮正宗大石寺一門の信者である法華衆たちの「講」が、すでに大石寺6世法主・日時の時代においては、大石寺の周辺の信者たち・法華衆たちまでもが結んでいたということである。こういった事実を照らし合わせれば、当然のことながら、日蓮正宗大石寺9世法主・日有の時代においては、「法華講衆」の文言が本尊の脇書きに記載されていても何の不思議もないではないか。すなわち、大石寺9世日有の代にはすでに「法華講」が存在していたことは、大石寺9世日有偽作を証明する証拠の第12である。

9世日有4(諸記録)
 

(能勢順道氏の著書『諸記録』に載っている大石寺9世日有の肖像画)

正本堂法庭1
 

(大石寺正本堂に参詣している『法華講』/写真集・日蓮正宗法華講連合会第27回総会より)