■検証221・大石寺の「戒壇大本尊」が大石寺9世日有の偽作である16の証拠76

 

大石寺「戒壇の大本尊」と日蓮本仏義の偽作者は同一人・大石寺9世日有である3

 

大石寺9世日有は、釈迦牟尼本仏義を否定したあと、日蓮こそが本尊・本仏であると論じる。

「当宗には断惑証理の在世正宗の機に対する所の釈迦をば本尊には安置せざるなり、其の故は未断惑の機にして六即の中には名字初心に建立する所の宗なる故に、地住已上の機に対する所の釈尊は名字初心の感見には及ばざる故に、釈迦の因行を本尊とするなり、其の故は我れ等が高祖日蓮聖人にて在すなり」(『日有師化儀抄』p109)

「当宗の本尊の事、日蓮聖人に限り奉るべし、仍つて今の弘法は流通なり、滅後の宗旨なる故に未断惑の導師を本尊とするなり」(『日有師化儀抄』p46)

大石寺9世日有は「釈迦の因行」=日蓮であるから、日蓮=本尊であるとする。すなわち、釈迦牟尼本仏義を否定して、日蓮=本尊であると説いているわけだから、本仏思想における本仏=本尊という図式からして、本尊=日蓮=本仏ということでないと、辻褄が合わなくなる。

大石寺9世日有の説法の聞書を筆録した「有師談諸聞書」には

「高祖(日蓮)大聖は我れ等が為に三徳有縁の主師親・唯我一人の御尊位と云へり」(日蓮正宗大石寺59世法主・堀日亨編纂『富士宗学要集』2p159)

という大石寺9世日有の説法が残されていて、日蓮の位は、法華経で「唯我一人能為救護」と説いた釈迦牟尼と同じ本仏の位であると大石寺9世日有が言っている、ということになる。

しかし大石寺9世日有は、日蓮=本尊ではあるが、それは日蓮の木像を独立して本尊とするのではなく、日蓮の大漫荼羅を本尊とすべきと説いている。「化儀抄」の中に

「法華宗は何なる名筆たりとも観音妙音等の諸仏諸菩薩を本尊と為すべからず、只十界所図の日蓮聖人の遊ばされたる所の所図の本尊を用ふべきなり」(『日有師化儀抄』p7374)

と大石寺9世日有が説いた説法が書き残されている。

「当宗の本尊の事、日蓮聖人に限り奉るべし」と説いた大石寺9世日有が、もう一方では「只十界所図の日蓮聖人の遊ばされたる所の所図の本尊を用ふべきなり」と、日蓮の大漫荼羅を本尊とすべきと説いている。「十界所図の日蓮聖人の遊ばされたる所の所図の本尊」とは、明らかに日蓮の木像(御影)ではなく、大漫荼羅のことであるが、大石寺9世日有は特に「日蓮聖人の遊ばされたる所の所図の本尊」と言っていることから、これは法主が書写した大漫荼羅本尊などではなく、日蓮真筆の大漫荼羅本尊ということになる。日蓮正宗大石寺において、根本本尊として祀っている本尊とは、日蓮真筆そのものではなく、大石寺9世日有が偽作して日蓮真筆を詐称している「戒壇の大本尊」なる板本尊に他ならない。つまりこれらの大石寺9世日有教学を整理すると、「釈迦の因行」=日蓮であるから、日蓮=本尊であり、本仏思想における本仏=本尊という図式からして、本尊=日蓮=本仏を導き出しているが、その本尊とは、日蓮の木像(御影)ではなく「戒壇の大本尊」であり、本仏=本尊=日蓮=「戒壇の大本尊」ということになる。すなわち、大石寺9世日有の「日蓮本仏義」は、「戒壇の大本尊」を根本本尊に据えるための教義理論を完成させるためのものである、と言うことである。

 

 

□大石寺9世日有の「戒壇大本尊」偽作で「戒壇大本尊」=日蓮本仏義が必要になった3

 

それから、かつてGREE「アンチ日蓮正宗」で、犀角独歩氏が、

「大石寺6世日時が、御影像を造立ことが日蓮を本尊とした教義を立てた証拠」

「大石寺9世日有は『日蓮本尊義』を唱えたのであって『日蓮本仏義』は唱えていない」

などと書いていたことがありましたが、勘違い・誤謬も甚だしいものがある。

日蓮の御影像を祀っているのは、何も大石寺だけではない。身延山久遠寺、池上本門寺、鎌倉・妙本寺、中山・法華経寺、京都・妙覚寺、京都・本隆寺、玉沢・妙法華寺、茂原・藻原寺、江の島・龍口寺、…日蓮宗寺院でも日蓮木像を祀る寺院は、全国各地に数え切れないくらいある。

しかし、日蓮宗は、日蓮本仏義も日蓮本尊義も教義上、立てていないことは明らか。

日蓮宗寺院の祖師堂や大堂に、日蓮祖師像が祀られているのは、日蓮を本尊と立てているからではない。日蓮宗寺院が本尊と立てているのは、「本師」とする久遠実成の釈迦如来であり、あるいは釈迦如来・多宝如来に四菩薩を加えた二尊四士。

身延山久遠寺本堂の場合は、首題の南無妙法蓮華経、二尊四士、日蓮像の他に、曼荼羅本尊を立体化した立体本尊を須弥壇に祀っている。つまり日蓮の木像を祀っていることと、日蓮本仏義も日蓮本尊義も全く関係ないと言うことである。また大石寺9世日有が

「法華宗は何なる名筆たりとも観音妙音等の諸仏諸菩薩を本尊と為すべからず、只十界所図の日蓮聖人の遊ばされたる所の所図の本尊を用ふべきなり」(『日有師化儀抄』p7374)

「当宗の御堂は如何様に造りたりとも皆御影堂なり、十界所図の御本尊を掛奉り候へども高祖日蓮聖人の御判御座せば只御影堂なり」(日蓮正宗大石寺59世法主・堀日亨編纂『富士宗学要集』1p193)

が書き残している。つまり大石寺9世日有は、大石寺6世日時が造立した日蓮木像を本尊としたのではなく、「十界所図の日蓮聖人の遊ばされたる所の所図の本尊」を祀り、そこが御影堂だと言っていることからして、あくまでも中心に据えているのは曼荼羅本尊であって、日蓮の木像ではないことが明白である。そもそも大石寺御影堂が最初に建立されたのは大石寺12世日鎮の代であって、大石寺9世日有の代ではない。ここに不埒な犀角独歩氏のお粗末極まりない日蓮本尊義なる妄説は全て崩壊してしまうことになる。

9世日有4(諸記録)
 

(能勢順道氏の著書『諸記録』に載っている大石寺9世日有の肖像画)

戒壇大本尊3
 

(大石寺『戒壇の大本尊』)