■検証12・日蓮本仏義の大ウソ・日蓮本仏義は日蓮・日興の教義ではない12

 

□日蓮・十一通御書に対して何も回答せず何も行動を起こさず完全に黙殺した鎌倉幕府

 

日蓮正宗、創価学会、顕正会、正信会の「日蓮正宗系」団体の信者が、「日蓮が久遠元初の自受用身如来・久遠元初の本仏である証拠」などと称するのが、いわゆる「龍口法難」で「光り物」が顕れて日蓮の命を救ったとされる「宗教的奇跡」なるものである。「龍口法難」は本当に「宗教的奇跡」だったのか。龍口法難とは、日蓮の立宗宣言~立正安国論上奏という、流れの中で起こったことであるので、立正安国論との兼ね合いも含め、立正安国論以降の日蓮の行動から話しを進めてまいりたい。日蓮の生涯の足跡の見解について、「アンチ日蓮正宗」管理人の見解は、歴史学者・井沢元彦氏が著書「逆説の日本史」に書いている見解を基本的に支持する立場である。

さて日蓮が立正安国論を北条時頼に上奏したが、北条時頼が何の沙汰もしなかったのを、前回、時頼の「好意」と書いた。しかし、日蓮から「念仏無間」と喝破された浄土宗の宗徒はこれではおさまらない。日蓮を放ってはおけないものの、日蓮の弁舌には一筋縄の弁舌では勝てないと考えた浄土宗の信者たちは、名案を考え出した。時の執権・北条長時の父は、念仏信者の極楽寺入道重時。浄土宗の信者たちはこの重時の応援を得て、日蓮が居住していた松葉ヶ谷の草庵を焼き討ちにして、日蓮を打ち殺そうとした。日蓮は弟子たちにかくまわれて、辛うじて脱出したが、草庵は焼失した。日蓮はその後、下総国中山の信者・富木常忍のもとにかくまわれていたが、翌年の1261(弘長元年)には鎌倉に戻り、再び辻説法で他宗を激しく批判した。念仏信者たちは、てっきり日蓮が死んだものと思っていたが、再び鎌倉で日蓮が「念仏無間」と批判しはじめたことで、今度は暗殺ではなく、法律的に日蓮を葬ろうとした。念仏信者たちは、極楽寺重時と息子の執権・長時に、日蓮を御成敗式目第十二条違反で捕縛するように訴えた。御成敗式目第十二条とは、「悪口は騒乱の元であるから口にしてはならない。これを犯す者は流罪・禁固の刑に処す」というもの。鎌倉幕府は日蓮を逮捕して伊豆流罪とした。たしかに日蓮の「四箇の格言」は、御成敗式目第十二条違反だとしても、法律で決するのなら、念仏信者たちによる松葉ヶ谷草庵焼き討ちも罪に問われてしかるべきなのだが、こちらは無罪放免。これは公平とは言い難い。放火、騒乱、暗殺は、いつの時代でも重罪のはずだが、極楽寺重時が念仏信者だったことによって、念仏信者たちによる松葉ヶ谷草庵焼き討ちは不問になっている。これは、伊豆流罪の後、極楽寺重時が急死したことで赦免の道が開かれ、最明寺時頼が動いたようで、日蓮は1263(弘長3)、二年間の流罪生活から解放される。しかし、北条時頼もその年にまだ37歳の若さで死去する。

さて赦免になった日蓮は、父は他界していたものの、母が存命だったので、故郷の安房国に帰った。ところが日蓮の故郷の領主・東条景信が熱心な念仏信者で、日蓮が信者宅に行った、その帰途の途中、日蓮を襲撃して暗殺しようとした。これが「小松原の法難」と呼ばれる法難である。

日蓮は、この三回目の小松原の法難も、辛うじて切り抜けたが、工藤吉隆という信者と鏡忍房という弟子が討ち死にし、日蓮も額に大きな刀傷を受けて負傷した。

 

 

□日本に蒙古からの服属を求める国書が届く中で日蓮「十一通御書」を完全黙殺した鎌倉幕府

 

これだけ、襲撃されたり、流罪にあっても、日蓮はひるまず、他宗批判をやめなかった。なぜ日蓮は自分の信念を曲げなかったのか。一つは、日蓮が信仰していた法華経。法華経勧持品第十三には、「二十行の偈」というのがあり、「末法に法華経を弘める者は、それを理解しようとしない悪人に刀で斬られ、杖で打たれる迫害にあうだろう」というような内容の予言が書いてある。だから法華経絶対の信仰をしていた日蓮は、迫害されればされるほど、「自分の行動は正しい」と考えて、ますます過激な行動がエスカレートする。こういう日蓮の信仰の中に、カルト的な要素がなかったとは言い切れないであろう。

二つ目には、蒙古からの通牒。1268(文永5)には、はじめて元の皇帝・フビライから日本に服属を求める国書が届いた。前回の質問の時、中国大陸・朝鮮半島におけるモンゴルの領土拡大という国際情勢を、宋からの渡来人、宋からの帰国僧、日宋貿易の商人によって日本の公家、武家、僧侶といった知識階級に情報がもたらされ、日蓮もそういう情報を知っていた可能性が非常に高い、ということを書いた。しかし予想されたこととはいえ、実際に蒙古からの国書が届くと、なにせ日本に外国からの服属を求める国書が届くなどというのは、有史以来はじめてのことだから、やはり国を挙げて上へ下への大騒ぎとなる。しかし、日本国内の武家、公家は、国防をどうするか、ということに腐心する中、日蓮はますます「自分は正しい」という信念に入り込み、幕府に対して再度、「立正安国論」を提出するとともに、「十一通御書」とよばれる書状を、幕府の要人や他宗の僧侶たちに送っている。この「十一通御書」の内容は、普通の日本人では考えられないほど激烈で、たとえば北条時宗への書状には

「この日蓮が『立正安国論』で予言した『他国侵逼難』がまさに招来したではないか。直ちに建長寺(臨済宗)、極楽寺(念仏宗)、鎌倉大仏等への信仰をやめよ。そうしないと本当に攻められるぞ」

と書き、極楽寺良寛(忍性)への書状には

「三学に似たる矯賊の聖人なり。僣聖増上慢にして今生は国賊、来世は那落に堕在せんこと必定せり」(御書全集p367)----あなたは僧侶に似た慢心と法盗人の聖人、権力と結託した僣聖増上慢であり、今生は国賊であり、来世は無間地獄の那落に堕在することは絶対に間違いない---

とボロクソに書いている。忍性とは、慈善事業に尽力して民衆の人気が高かった真言律宗の高僧。ところが、これだけボロクソに書いた十一通御書に対しても、幕府は日蓮に対して、何も回答せず、何も行動を起こさなかった。完全に黙殺した。

池上大堂・日蓮1
 

(日蓮像・池上本門寺大堂・池上本門寺発刊「霊寶殿」より)

龍口寺1


龍口寺3
 

(龍口法難跡・日蓮宗・片瀬龍口寺)