■検証113・「富士門流執着軍団」や東佑介氏らの「百六箇抄」京都要法寺偽作説は誤りである6

 

□京都要法寺に大石寺9世日有独自発明の「事の戒壇」義・「富士山本門寺本堂」は存在しない

 

「百六箇抄」偽作解明の重大なポイントの第一が、「百六箇抄」の本文中にある「富士山本門寺戒壇」「事の戒法」である。日蓮は広宣流布の日に建立する戒壇をどこに建てるかについては「霊山浄土に似たらん最勝の地」としか言っておらず、寺号も具体的には書き残さなかった。

ところが「百六箇抄」の偽作者は戒壇を建立すべき場所を「富士山」、戒壇を建立する寺院の寺号を「本門寺」としている。これは一体、どういう戒壇なのか。それは「百六箇抄」にある。

「四十二、下種の弘通戒壇実勝の本迹、 三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺本堂なり」

(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂「富士宗学要集」1p18)

百六箇抄6(富士山本門寺本堂)
 

「又五人並に已外の諸僧等、日本乃至一閻浮提の外万国に之を流布せしむと雖も、日興嫡嫡相承の曼荼羅を以て本堂の正本尊と為すべきなり」

(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂「富士宗学要集」1p21)

百六箇抄7(日興嫡嫡相承本堂正本尊)
 

「百六箇抄」にある「日興嫡嫡相承の曼荼羅」というのは、大石寺の「戒壇の大本尊」であり、「百六箇抄」の文意は、「戒壇の大本尊を富士山本門寺本堂の正本尊とすべし。この富士山本門寺本堂が三大秘法建立の勝地である」という意味である。すなわち「二箇相承」の「富士山本門寺戒壇」と「百六箇抄」の「富士山本門寺本堂」は同一のものであり、それは「日興嫡嫡相承の曼荼羅を以て本堂の正本尊と為す」戒壇ということである。「本門事の戒壇」になるべき本尊堂(本堂または御堂とも言う)に安置するという「戒壇の大本尊」なる偽作板本尊を根本に据えて、本門の本尊・戒壇・題目という「三大秘法」という根幹の教義を完成させたのは、大石寺9世日有である。

この本門の本尊・戒壇・題目の中では、「戒壇の大本尊」なる偽作板本尊を祀る「戒壇」を中心にした「三大秘法」は、日蓮が説き明かした三大秘法ではなく、まさに大石寺9世日有が発明した、日有独自の三大秘法である。こんな三大秘法は、日蓮が全く説いていないばかりか、日蓮宗門史上、日本の仏教史上、誰一人説いた僧はいなかった。大石寺9世日有が、歴史上はじめて説いた「戒壇」中心の三大秘法。すなわち大石寺9世日有独自の三大秘法である。

こう言うと、「百六箇抄」京都要法寺偽作説者たちは、「その独自の戒壇を説いたのが京都要法寺なのだ」と、こう言う。つまり大石寺9世日有が偽作した「戒壇の大本尊」なる偽作板本尊を祀る「事の戒壇」を、京都要法寺の「称徳符法の大本尊」「附法の曼荼羅」を祀る「事の戒壇」にすり替えようとするのである。ところが残念ながら、この「百六箇抄」京都要法寺偽作説者たちによる大石寺9世日有独自の「事の戒壇」のすり替え作戦は全く成立しない。それはなぜか。

 

 

□造仏読誦の京都要法寺は日興嫡嫡相承の曼荼羅を祀る戒壇を説く百六箇抄偽作者ではない

 

「百六箇抄」京都要法寺偽作説者たちによる大石寺9世日有独自の「事の戒壇」のすり替え作戦を論破するには、京都要法寺の歴史や教義との関連・研究が不可欠になります。それはどういうことなのか。大石寺9世日有が偽作した「戒壇の大本尊」なる偽作板本尊を祀る「事の戒壇」を、京都要法寺の「称徳符法の大本尊」「附法の曼荼羅」を祀る「事の戒壇」だとするのならば、少なくとも「百六箇抄」が成立した15世紀(1400年代)のころ、京都要法寺に「称徳符法の大本尊」「附法の曼荼羅」が存在していたこと。京都要法寺が「大曼荼羅本尊」だったこと。この二つが成立していなくてはならない。ところが京都要法寺に「称徳符法の大本尊」「附法の曼荼羅」の存在が確認できるのは江戸時代後半になってからのことであること。

□「百六箇抄」の「日興嫡嫡相承の曼荼羅の解釈」を論拠とした京都要法寺偽作説は誤りである

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/46252501.html

□京都要法寺偽作・称徳符法の大本尊を論拠とした「百六箇抄京都要法寺偽作説」は成立しない

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/46252836.html

□京都要法寺偽作・附法の曼荼羅を論拠とした「百六箇抄京都要法寺偽作説」は成立しない

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/46253279.html

そして京都要法寺の歴史を具に紐解いていくと、要法寺13世日辰の開山から江戸時代中期のころまで、要法寺では釈迦如来の仏像が造立され、法華経一部読誦の化儀が行われていたことに言及しなくてはなりません。これを一般的に「造仏読誦」と言う。現在の京都要法寺は、大漫荼羅本尊、方便品・寿量品読誦という、富士門流の化儀であり、造仏読誦は行われていない。この造仏読誦の化儀から、富士門流の化儀に転換したのは、江戸時代中期の寛政年間における日蓮宗本山との教義紛争がきっかけで、このころに仏像本尊から大曼荼羅本尊に転換したのである。

今の日蓮本宗・京都要法寺は、かつての造仏読誦の化儀や寛政年間における日蓮宗本山との教義紛争について、実に歯切れが悪い。小冊子『私たちの要法寺』を読んでも、要法寺の歴史の項目では、造仏読誦の化儀については、一言も触れていない。今の京都要法寺僧侶に、かつての造仏読誦の化儀について質問しても、「そんなことは行っていません」と否定してくる。しかし、富士門流関係の膨大な古文書を研究していくと、要法寺13世日辰の開山から江戸時代中期のころまでの要法寺では、造仏読誦が行われていたことが明らかである。そこで造仏読誦や、これに関連する堂宇について研究するには、古文書や古図・絵図等の史料を調べていくしかない。要法寺の本堂・開山堂に関する注目すべき史料としては、現在の要法寺の伽藍・堂宇が落成した頃の古図が挙げられます。その古図とは、以下のものです。

要法寺古図1
 

(京都要法寺古図)

この古図を見ると、本堂、塔中、表門、西門、鐘楼、経蔵は今とかわらないのですが、一点、開山堂が「釈迦堂」となっています。これは注目すべき事です。今の要法寺本堂が落成したのは、安永3(1774)。要法寺が仏像を廃して大曼荼羅本尊を勧請し、日蓮宗・京都15本山との間に教義紛争が起こったのが寛政7(1795)です。つまり今の本堂の落成から21年後のこと。つまりこの古図は、安永3(1774)の本堂落成から、仏像を廃した寛政7(1795)21年の間に描かれたものと考えられます。

要法寺1本堂1
 

(京都要法寺)