■検証248「富士門流執着軍団」の「戒壇大本尊」大石寺17世日精偽作説は誤りである10

 

なぜ大石寺17世日精は御影堂に戒壇大本尊を祀って「本門戒壇堂」棟札を掲げたのか

 

大石寺御影堂に大石寺17世日精が自筆で「本門戒壇堂」と記した棟札を掲げたこと、御影堂の厨子にある日蓮御影像の背に大石寺17世日精が「戒壇の大本尊」なる板本尊を祀ったことは、歴史的な事実ではあるが、ただしそれは、大石寺17世日精が「戒壇の大本尊」なる板本尊を偽作した証拠ではないということである。それではなぜ、大石寺17世日精は御影堂に「戒壇の大本尊」なる板本尊を祀り、「本門戒壇堂」と記した棟札を掲げたのか、ということになる。

造仏読誦論者だった大石寺17世日精は、大漫荼羅本尊は、三大秘法建立の時(つまり広宣流布の日)、ないしは経済的に可能である時、本門の本尊造立のための設計図であり、その本門の本尊造立の時までの仮の本尊、ないしは常途の本尊という位置付けと認識していた。つまり三大秘法抄の戒壇に祀られる本門の本尊とは、十界勧請の立体仏像本尊と認識していたのである。ならば、大石寺17世日精は「戒壇の大本尊」をどのように認識していたのか、というと

「此の木を以て戒壇院の本尊を造立し…」

「大聖、戒壇院の本尊を書し日法之を彫刻す。今の板本尊是れなり」

(大石寺59世堀日亨編纂『富士宗学要集』5p244/大石寺17世日精の著書『富士門家中見聞』)

家中抄・日法伝1
 

と書いているように、大石寺の「戒壇の大本尊」のことを「戒壇院の本尊」と書いている。そうすると、大石寺17世日精は三大秘法抄の戒壇に祀られる本門の本尊とは、十界勧請の立体仏像本尊と認識していた一方で、「戒壇の大本尊」なる板本尊も三大秘法抄の戒壇に祀られる本尊と認識していたのか、という問題が起きるが、実は大石寺17世日精が「戒壇院の本尊」と書いている「戒壇院」の言葉の意味が問題になってくる。大石寺17世日精が言っている「戒壇院」というのは、日蓮が三大秘法抄で書いている「戒壇」ではなく、「僧侶・尼僧に戒を授けるために築かれた戒壇が設けられている建物」という意味で使っている。つまりこれは大石寺9世日有が

「大石は父の寺、重須は母の寺、父の大石は本尊堂、重須は御影堂、大石は本果妙、重須は本因妙、彼は勅願寺、此は祈願寺、彼は所開、此は能開、彼は所生、此は能生、即本因、本果、本国土妙の三妙合論の事の戒壇なり」

(『新池抄聞書』/大石寺59世堀日亨の著書「富士日興上人詳伝・下」p84)

新池抄聞書1


新池抄聞書3
 

と、「事の戒壇」と言った「戒壇」である。

17日精・本門戒壇本堂棟札1
 

(大石寺観行坊住職・能勢順道氏編纂『諸記録』1部に載っている大石寺御影堂に大石寺17世日精が自筆で「本門戒壇堂」と記した棟札)

 

 

 

□十界勧請の立体仏像本尊論者の大石寺17世日精「戒壇の大本尊」を偽作するわけがない

 

戒壇というのは、そもそも日本では754(天平勝宝6)に、唐僧・鑑真が東大寺に築いたのが最初で、次いで福岡県の観世音寺、栃木県の薬師寺、奈良県の唐招提寺といった官寺に建てられ、平安時代初期には比叡山延暦寺に大乗戒壇が築かれた。これらの東大寺や延暦寺の戒壇は、「戒壇院」と呼ばれている。日本では、これら官寺で修行し、戒壇院で授戒・度牒した僧侶だけが、正式に朝廷から僧侶として認められてきたという歴史がある。つまり大石寺17世日精が、「戒壇の大本尊」なる板本尊のことを「戒壇院の本尊」と呼び、「戒壇の大本尊」なる板本尊を御影堂の日蓮木像の後ろに祀り、御影堂に「本門戒壇堂」と自筆した棟札を掲げたということは、大石寺が「事の戒壇」であり、大石寺に「戒壇院」「本門戒壇堂」があるということを内外に宣言しているということに他ならない。

そもそも大石寺を比叡山延暦寺の戒壇に優越する「事の戒壇」と定義づけたのは、大石寺17世日精ではなく、大石寺9世日有である。そして将来、国主が帰依して三大秘法抄の戒壇が建立されるときは、「戒壇の大本尊」が三大秘法抄の戒壇に祀られる。よってこの板本尊こそが「本門戒壇の大本尊」だと言ったわけである。しかし大石寺17世日精は、三大秘法抄の戒壇に祀られる本尊は、「戒壇の大本尊」なる板本尊ではなく、十界勧請の立体仏像本尊だと認識していた。これは、大石寺の教学ではなく、京都要法寺・日辰の教学である。したがって、京都要法寺・日辰の教学で三大秘法抄の戒壇に祀られる本尊は、「戒壇の大本尊」なる板本尊ではなく、十界勧請の立体仏像本尊だと認識していた大石寺17世日精が、自分で「戒壇の大本尊」なる板本尊を偽作するわけがない。よって、どこをどうつついても、「戒壇の大本尊」なる板本尊を偽作したのは大石寺17世日精ではない、という結論が導き出されるわけで、ここに犀角独歩氏の「戒壇の大本尊」大石寺17世日精偽作説が完全な誤りであることが明確になる。

ここで再び、最初の疑問に戻るわけだが、ならばなぜ大石寺17世日精は御影堂に「戒壇の大本尊」なる板本尊を祀り、「本門戒壇堂」と記した棟札を掲げたのか、ということになる。

日蓮正宗大石寺17世法主・日精が、「戒壇の大本尊」なる板本尊のことを「戒壇院の本尊」と呼び、「戒壇の大本尊」なる板本尊を御影堂の日蓮木像の後ろに祀り、御影堂に「本門戒壇堂」と自筆した棟札を掲げたということは、大石寺が「事の戒壇」であり、大石寺に「戒壇院」「本門戒壇堂」があるということを内外に宣言しているということになるのだが、なぜ大石寺17世日精はそんなことをしたのか。それは大石寺門流が、徳川幕府公認の宗派となるための一大パフォーマンスだったということである。

そもそも「戒壇」とは、戒律を授ける(授戒)ための場所を指すのであるが、「戒壇」で授戒を受けることで出家者が正式な僧侶・尼として認められることになる。日本に仏教が伝わった当時の戒律は、不完全なもので、当時、出家僧侶は税を免除されていたため、税を逃れるために出家して得度を受けない私度僧が多くいた。又、出家僧侶といえど修行もせず堕落した僧が多かった。そのため、唐より鑑真が招かれ、戒律が伝えら、この戒律を守れるものだけが僧として認められることとなった。そもそも日本への仏教伝来以降、飛鳥・奈良地方に建立された南都六宗である法相宗(興福寺・薬師寺・法隆寺) 、倶舎宗(東大寺・興福寺) 、三論宗(東大寺南院) 、成実宗(元興寺・大安寺) 、華厳宗(東大寺) 、律宗(唐招提寺)の寺院とは、朝廷、天皇、皇族、公家・貴族が建てた、いわゆる「官寺」であり、僧の地位は国家資格であり、国家公認の僧となるための儀式を行う「戒壇」で授戒した官寺の僧侶のみが、朝廷から僧侶として認められたのである。

17世日精1
 

(大石寺17世日精の著書「随宜論」の末文に載っている日精花押)

御影堂2
 

(大石寺17世日精が建立した大石寺御影堂/小冊子「大石寺案内」より)