■検証260・「戒壇大本尊」を偽作した大石寺9世日有が絶対に自ら偽作を宣言しない2

 

戒壇大本尊を偽作した大石寺9世日有が絶対に自ら戒壇大本尊偽作を宣言しない2

 

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(不埒な洗脳法華講員・龍神ひろしの妄説)

戒壇の大御本尊を後世に造るのは不可能である。日有上人が、摸写したとして信徒にだけ見せて、他人には見せない。のは考えにくい。日蓮系の各宗派に自慢したがるはずですし、実際に存在したと見せて自慢したはずです。今日でも、立派な物、建築物や絵や書を発表するのは、当たり前の事です。 それを見せないで信徒のみだった?これは、おかしいでしょう。手間をかけコストも莫大にかけて、摸写した本尊を見せないなんて事はない。術的にコストや、人間心理からも、模写は不可能ですね。(楽天ブログ・龍神ひろし日記より)

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一体、何処の世界に、ニセモノを偽作して、それを自慢して人に見せびらかす者がいるというのか。この洗脳法華講員・龍神ひろしの妄説は笑止千万である。大石寺9世日有が自分で「戒壇の大本尊」なる板本尊を造ったといって、周囲や他門流に見せびらかしたら、偽作にならない。「戒壇大本尊」を偽作した大石寺9世日有が絶対に自ら「戒壇大本尊」偽作を宣言しないのである。「偽作」とは、辞書には「本物に似せて作ること。特に、書画などを本来の作者の作品に見せかけて作ること。また、その作品。贋作(がんさく)。」 とあるとおり、「戒壇の大本尊」の場合は、日蓮真作ではない本尊を、日蓮真作を偽り、さも日蓮が造立した本尊であるかのように見せかけて造ったということである。大石寺9世日有が偽作したからといって「自分が造立した」などと板本尊を見せびらかしたら、自分で自分の偽作をバラすようなものだ。 人を騙す目的・動機でニセモノを偽作した者が、自分で自分の偽作をバラすわけが絶対にない。これなどは「偽作」の意味からして、まるでわかっていないとしか思えない。龍神ひろしが言うように、「手間をかけコストも莫大にかけて、摸写した本尊」を「見せて自慢した」ならば、「戒壇の大本尊」が日蓮真筆ではなく、大石寺9世日有が偽作したことが、大石寺門流の信者や他門流にバレてしまうではないか。「戒壇の大本尊」を偽作した大石寺9世日有が、自らの偽作をバラすことをするはずがない。「戒壇の大本尊」偽作が、大石寺門流の信者や他門流にバレたならば、大石寺9世日有や大石寺の信用は地に落ちてしまう。「戒壇の大本尊」を偽作した当人が自ら偽作をバラすはずがないことは、子どもでもわかるだろう。

 

 

□大石寺9世日有は「戒壇の大本尊は日蓮真筆の本尊だ」と最後の最後までウソをつき通した

 

そうではなく大石寺9世日有は、「日蓮真筆」を詐称する「戒壇の大本尊」なる板本尊を室町時代中期に偽作したことによって、日蓮在世の時代から大石寺9世日有の代まで、歴史上、全く存在しなかった「戒壇の大本尊」の時間的空白を埋める必要があった。いくらなんでも、今まで全く「未聞未見」の「戒壇の大本尊」なる板本尊を見せられ、前代未聞の「日蓮が本仏だ」という教義を突然、時の法主から聞かされても、宗祖・日蓮が造立した板本尊や、釈迦牟尼ではなく日蓮を本仏とする教義など、僧侶・信者にとって、まさに前代未聞のもの。 「そんな板本尊も教義も今までになかったものだ」ということになる。そこで大石寺9世日有が、大石寺門流で、最初に大石寺法主の血脈なるもの「唯授一人の血脈相承」を唱えた。「戒壇の大本尊」なる板本尊も「日蓮本仏義」なる教義も、大石寺9世日有より以前の時代において、大石寺門流には存在しておらず、影も形もないものであり、誰もその存在を知らなかったもの。しかし誰も知らなかったが

「日蓮大聖人・日興上人から相承を受けていた法主だけが知っていた」 「広宣流布の暁までは、蔵の中におしまいして、決して公開されぬ御本尊なのです」 「その法主の言っていることを信じろ」

とウソをついた。大石寺9世日有は自ら偽作した板本尊を見せびらかすどころか、「戒壇の大本尊は日蓮真筆だ」と、大石寺9世日有(ないしは大石寺9世日有以降の大石寺法主)は最後の最後までウソをつき通さなくてはならないのである。間違っても、大石寺9世日有は「戒壇の大本尊」なる板本尊を自らが偽作したことを宣言するかのような証拠を残すはずがない。そんなことをすれば、忽ちのうちに大石寺9世日有が「戒壇の大本尊」なる板本尊を偽作したことが、大石寺一門にバレてしまい、大石寺9世日有がいくら「日蓮大聖人が弘安二年十月十二日に御図顕された」「日蓮大聖人の本懐の御本尊」「日蓮大聖人の一期の御化導における終窮究竟の極説の御本尊」などと言ったところで、大石寺門流の信者や他門流を欺瞞して信用させることができなくなる。「戒壇の大本尊」偽作が大石寺門流の僧侶・信者のみならず、身延山久遠寺、北山本門寺、西山本門寺、小泉久遠寺、保田妙本寺、京都要法寺等々の他門流にバレてしまうということは、逆に大石寺門流一門と法主・大石寺9世日有の権威と信用は地に落ちてしまう。否、それどころか、大石寺の僧侶や信者は大石寺9世日有から離反し、大石寺門流が潰れてしまう危機に陥る。

「犯人は、自ら犯した犯罪を隠蔽するために、極力、犯罪の証拠を隠滅しようとする」

「犯人は、自ら犯した犯罪を隠蔽するためにアリバイ工作や偽装工作をする」

犯罪を犯した者は、自らの犯罪を隠蔽して捜査当局や周囲の人々を欺瞞しようとする。大石寺の「戒壇の大本尊」を偽作した「偽作犯」も、これと同じことが言える。つまり、大石寺の「戒壇の大本尊」を偽作した「偽作犯」は、偽作を隠蔽するために、偽作の証拠を隠滅しようとする。そして、アリバイ工作や偽装工作をする。大石寺9世日有が大石寺宝蔵で「戒壇の大本尊」偽作と同時に「紫宸殿本尊」を模刻した「身代わり本尊」を造立したこともそのひとつである。しかし大石寺9世日有がいくら「戒壇の大本尊」偽作の証拠を隠蔽しても、大石寺9世日有が歴史上はじめて説いた「事の戒壇」の説法は、大石寺門流ではなく、保田妙本寺・日郷門流に残っていた。

「大石寺独自の『事の戒壇』が大石寺9世日有の代に初めて登場する(新池抄聞書)

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/43894698.html

新池抄聞書1


新池抄聞書3
 

大石寺9世日有がいくら「戒壇の大本尊」偽作の証拠を隠蔽しても、大石寺9世日有の「戒壇の大本尊」偽作を見破り、大石寺9世日有を非難した人がいたのである。

1493(明応2)年・北山本門寺六代貫首・日浄「富士山本門寺文書集日浄記」の文」

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/46048004.html

日浄記1


 

9世日有3(諸記録)
 

(大石寺9世日有・能勢順道氏編纂「諸記録より」)

戒壇大本尊1大正4年由井本1
 

(大石寺「戒壇の大本尊」)

金正日1
 

(洗脳法華講員・龍神ひろしのそっくりさん・金正日)