■検証264大石寺9世日有「戒壇の大本尊」偽作の動機1・大石寺の総本山化3

 

□戒壇大本尊・百六箇抄・日蓮本仏義偽作で大石寺を総本山にしようとした大石寺9世日有

 

大石寺9世日有が「戒壇の大本尊」を正統化せしめるために偽作した「百六箇抄」「日蓮本仏義」を偽作した動機は、大石寺を身延山久遠寺や北山本門寺を凌ぐ日蓮一門総ての総本山にするためである。富士門流本山寺院・保田妙本寺・小泉久遠寺11代貫首(住職)日要が、かつて大石寺9世日有から聞いていた説法を、弟子たちに語っていた内容を日果という僧侶が筆録した「新池抄聞書」という文書には、次のような日有の言葉が書きとどめられている。

「日有云く、また云く、大石は父の寺、重須は母の寺、父の大石は本尊堂、重須は御影堂、大石は本果妙、重須は本因妙、彼は勅願寺、此は祈願寺、彼は所開、此は能開、彼は所生、此は能生、即本因、本果、本国土妙の三妙合論の事の戒壇なり」(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨の著書「富士日興上人詳伝」単行本p294/「富士日興上人詳伝・下」p84)

新池抄聞書1


新池抄聞書3
 

北山本門寺の「日浄記」も、大石寺9世日有の言葉を書きとどめている。

「大石寺の板本尊は日有(彼山中興)の偽造なり。往昔より兎角に北山本門寺の本堂を蔑如して富士門徒にて争う中に於て、殊に大石寺の邪徒、重須(北山)の本堂を嫉妬し板本尊を偽造して、戒壇の本尊と名付け、且は偽書を造り開山の付属と云い、無窮の妄語を吐き、世間の道俗を誑惑し、無慙無魂を招かるる事也」

「当山第六世日浄上人伝に云く『大石寺日有云く、重須は生御影堂正意、大石寺は本堂正意なり。故に国主本門の正法を立てらるる時は此の板本尊即ち本門戒壇の本尊と云々。』 …

是れ日浄上人は日有の時の人なり。已にそれ未聞未見の板本尊を彫刻すと云う。偽造たること白々たり。又、小泉久遠寺の日要、日我等、日有の真似をして重須は御影堂正意、久遠寺は本堂、能開所開、両寺一味などと云う」(「大石寺誑惑顕本書」p6p7)
日浄記1

大石寺9世日有は、「戒壇の大本尊」がある大石寺のほうが、開祖・日興が晩年住み、死去した北山本門寺よりも優越した根本の寺であると語っていた。大石寺9世日有の後継の大石寺法主は、大石寺9世日有が造り上げた「戒壇大本尊」「百六箇抄」「日蓮本仏義」の教義理論を以て、大石寺の総本山化路線を忠実に走った。そのことは、大石寺9世日有が「戒壇大本尊」「百六箇抄」「日蓮本仏義」を偽作した動機が「大石寺の総本山化のため」であるということを証明している。

 

 

□「戒壇大本尊」を祀り「日蓮=本仏=戒壇大本尊」の教義を具現化した大石寺御影堂

 

大石寺9世日有の代は、「戒壇の大本尊」=日蓮=本仏という教義理論にとどまっていたが、次の大石寺12世日鎮は、1522(大永2)年に大石寺境内に、御影堂を造立し、ここに大石寺6世日時が造立した日蓮の御影像(木像)を祀った。御影堂という堂宇は、大石寺が「常に此処に日蓮大聖人が住まわれて説法(常住此説法)される堂宇」と意義づけている堂宇であり、大石寺の御講や霊宝虫払大法会・御大会の二大法要、50年に一度の日蓮、日興、日目の遠忌法要の法主の説法も、ここ御影堂で行われる。富士門流の本山寺院・北山本門寺には「生御影」と称する日蓮御影が祀られた御影堂が古くから存在しており、北山本門寺では御影堂を中心堂宇と位置づけている。大石寺の御影堂造立は、北山本門寺の御影堂に対抗して大石寺に御影堂を造立して「総本山」の看板を明確にするという大石寺の意図がミエミエである。

1632(寛永9)年、大石寺17世日精が、阿波国(徳島県)徳島の城主・蜂須賀至鎮の夫人・敬台院の寄進を元にして、御影堂を再建・造営し、御影堂の表玄関に「本門戒壇堂」と書いた棟札を出している。さらに大石寺17世日精は、大石寺御影堂に自筆で「本門戒壇堂」と記した棟札を掲げ、御影堂の厨子にある日蓮御影像の背に「戒壇の大本尊」なる板本尊を祀った。この大石寺17世日精が御影堂に祀った「戒壇の大本尊」は、レプリカ板本尊の可能性が高い。しかしこれが仮にレプリカ板本尊であったとしても、大石寺17世日精は、「常に此処に日蓮大聖人が住まわれて説法(常住此説法)される堂宇」と意義づけている堂宇・御影堂を、大石寺の中心堂宇・本堂として使ったことがわかる。その後も、歴代の大石寺法主は、大きな法要で多数の信者が大石寺に参詣した折りには、「戒壇の大本尊」なる板本尊を御影堂の厨子に祀って、御影堂で御開扉を行っている。大正時代、東京独一本門講という講中が発刊した大石寺写真集には、御影堂を「大石寺本堂」と記して紹介している。つまり、「戒壇の大本尊」なる板本尊を御影堂に祀って御開扉を行っていたため、御影堂を「本堂」と意義づけていたと考えられる。

由井御影堂2
 

(大石寺御影堂を「大石寺本堂」と記して紹介している東京独一本門講という講中が発刊した大石寺写真集)

その大石寺17世日精以後も、歴代大石寺法主はこの御影堂を、総本山大石寺境内の中心堂宇として、度々、修理・改修している。日蓮正宗大石寺側の記録によれば、1699(元禄12)年・大石寺24世日永の時、1902(明治35)年・大石寺56世大石日応の時、1972(昭和47)年・大石寺66世細井日達の時に、御影堂の改修工事が行われており、さらに2009年の日蓮・立正安国論750年事業としても、御影堂改修工事が数年かけて行われている。

大石寺9世日有は、「戒壇の大本尊」=日蓮=本仏と意義づける「日蓮本仏義」を発明。この日蓮=本仏=戒壇の大本尊と意義づける「日蓮本仏義」という教義理論を具体的に具現化した堂宇が、かつての大石寺御影堂だった。つまり大石寺においては、日蓮の御影を祀っている御影堂という堂宇は、日蓮が「常住此説法」している堂宇であり、かつては「戒壇の大本尊」を祀って御開扉を行い、大石寺「本堂」と意義づけていた堂宇である。ここに大石寺6世日時が造立した日蓮の御影像(木像)を祀ったと同時に、「戒壇の大本尊」を祀って御開扉を行い、大石寺「本堂」と意義づけていたという意味は、これは北山本門寺の中心堂宇・御影堂よりも大石寺御影堂のほうが優越するという意味に他ならない。つまり、日蓮=本仏=戒壇の大本尊と意義づける「日蓮本仏義」という教義理論は、そのまま、大石寺が日蓮宗総本山・身延山久遠寺や富士門流総本山・北山本門寺といった他門流の本山寺院に優越する寺院であることを誇示する教学理論ということになる。これが「御影堂造立」というふうに具体化したのは日蓮正宗大石寺12世法主日鎮以降のことであるが、根源を辿れば、日鎮の先代法主である大石寺9世日有が偽作した「戒壇の大本尊」「百六箇抄」「日蓮本仏義」にほかならないのである。

戒壇大本尊1大正4年由井本1
 

(大石寺「戒壇の大本尊」)

9世日有3(諸記録)
 

(能勢順道氏の著書『諸記録』に載っている大石寺9世日有の肖像画)