■検証269大石寺9世日有「戒壇の大本尊」偽作の動機2・金銭収奪システム確立の為2

 

日蓮正宗大石寺9世法主日有以前の大石寺には参詣信者が皆無に等しかった

 

日蓮正宗大石寺9世法主日有の代ないし日有以前の時代において、日蓮一門の総本山は日蓮の正墓がある身延山久遠寺であるという見方が定説であり、日興門流の総本山は日興の正墓がある北山本門寺であるという見方が一般的な見方としてはあった。身延山久遠寺の日蓮の廟所は、日蓮一門の宗祖・日蓮の真骨が納められた正墓であり、又、北山本門寺の日興の廟所は、富士門流の開祖・日興の真骨が納められた正墓である。又、京都・鳥辺山の要法寺開山廟所(今の實報寺)は、日興本六僧の筆頭・日目、日興の高弟で京都布教の開祖・日尊の真骨が納められた日目、日尊の正墓である。西山本門寺の廟所には、ひとたびは北山本門寺の開祖・日興の後継に指名された日代の正墓があり、讃岐本門寺の廟所には本六僧・日仙の正墓があり、富士妙蓮寺の廟所には、本六僧・日華の正墓がある。

総本山とか本山とか呼ばれる大寺院には、その宗派の宗祖、開祖、派祖の正墓があり、そこには墓参の僧侶や信者が参詣に訪れ、供養金を置いていく。中でも身延山久遠寺の日蓮廟参詣の信者が歩く道が、「身延道」として地域の街道に発展したことは有名である。

だから、身延山久遠寺、北山本門寺、京都要法寺、西山本門寺、讃岐本門寺、富士妙蓮寺、小泉久遠寺といった本山には、信者からの供養金収奪・金銭収奪システムの確立のために、わざわざ「日蓮本仏義」や日蓮真筆を詐称する「戒壇の大本尊」なる板本尊を偽作しなければならない動機が全くない。そんな「戒壇の大本尊」なる板本尊だの「日蓮本仏義」なるものをわざわざ偽作しなくても、正墓に参詣する信者がちゃんと供養金を出していくのである。

京都や鎌倉の仏教宗派大寺院は、天皇、公家、将軍、幕臣、守護大名といった有力者の帰依による供養で、莫大な経済力を保持していたが、その一方で一般庶民の参詣による供養もあった。京都では、このころすでに貨幣経済や商工業の発達で、有徳人・町衆と呼ばれる裕福な人たちが多くいた。京都の寺院は、こういった裕福な商工業者の参詣供養によっても潤っていた。

大石寺の場合、領主の今川家は古くから臨済宗に帰依しており、今川家の帰依など、全く望み薄であった。実際、大石寺9世日有が客殿や宝蔵を創建するまで、大石寺には法主や所化僧が居住する十軒四面の六壺、蓮蔵坊をはじめとする塔中の宿坊ぐらいしか伽藍がなかった。

根本本尊も祀られていなければ、参詣する信者もほとんどおらず、大勢の信者が集って行う法要を行う建物もなかった。たまに信者が参詣して、微々たる供養を置いていくだけであった。

しかも、大石寺は、1330年代から70年つづいた保田妙本寺・小泉久遠寺などの日郷門流との戦争によって、大きく人的にも経済的にも疲弊していた。

 

 

□「戒壇の大本尊」偽作で湯之奥金山の金の利権の独占を狙った大石寺9世日有の野望

 

しかし大石寺9世日有が「戒壇の大本尊」なる板本尊を偽作して客殿を創建したとはいえ、まだまだ大石寺には、この大石寺9世日有の時代には、参詣する信者も少なかった。大石寺9世日有の経済力の源泉は、有力者の帰依や信者の供養によるものではなく、湯之奥金山から産出されていた金であった。湯之奥金山で金の採掘・経営を行っていた金山衆は、いかなる信仰をしていたのか。湯之奥金山博物館では、金山衆のほとんどが「法華の信者であったことが理解される」と結論づけている。ただ湯之奥金山博物館でも「日蓮宗」とか「富士門流」とかというふうに特定せずに「法華の信者」と言っていることは大きなポイントである。

これはどういうことかというと、一般大衆がどこか特定の宗派、特定の寺院に所属が固定化されたのは、寛文11年(1671年)に宗門人別改帳が法整備されてからで、これ以降、武士・町民・農民など階級問わず民衆は原則として特定の仏教寺院(不受不施派を除く檀那寺、藩によっては神社もあった)に属することが義務となり、その情報は全て寺院に把握されたこと以降においてである。

つまり、江戸時代の日本で宗門改(宗門人別改)によって宗門人別改帳(しゅうもんにんべつあらためちょう)という民衆調査のための台帳が寺院に作成され、この宗門人別改帳が戸籍原簿や租税台帳の側面を強く持つようになっていったわけである。ではそれ以前は、どうだったかというと、浄土宗・浄土真宗、天台宗、真言宗、禅宗、律宗、南都六宗ぐらいの区別は一般庶民でも知っていただろうが、日蓮宗だからといって身延山久遠寺のみに参詣していたわけではなく、身延山にも参詣・供養する一方で、大石寺にも供養し、北山本門寺にも供養していたのである。とは言っても甲斐国(山梨県)は身延山久遠寺が有力であり、駿河国(静岡県)は富士門流が有力であったから、甲斐国の人たちは主に身延山に参詣し、駿河国の人たちは主に富士門流の寺院に供養していたと考えられる。江戸時代に湯之奥の中山金山に建てられた石塔や茅小屋金山に建てられた墓石に「富士北山村」の文字が見えるものがあることから、湯之奥金山博物館では、金山衆の菩提寺は富士宮市北山の北山本門寺であったと特定している。湯之奥金山博物館の展示では、これは湯之奥金山の金山衆が静岡県富士宮市と深い関わりがあったことを示唆していると、している。

湯之奥金山の金山衆が大石寺9世日有に「金」を供養する、いわば最大のスポンサーだった。

その金山衆たちは、法華の信者ではあったが、供養する宗派は大石寺だげとは限らない。北山本門寺になびくときもあれば、西山本門寺になびくときもある。小泉久遠寺になびくときもあれば、身延山久遠寺になびくときもある。身延山久遠寺は、日蓮一門の宗祖・日蓮の正墓があり、多くの人が参詣する大寺院であり、北山本門寺にも日興門流の祖・日興の正墓があり、中心堂宇として御影堂があり、こちらもたくさんの参詣人を集めていた。しかし大石寺はどうかというと、根本本尊もなく、さしたる教学も確立されているわけでもない。日蓮、日興、日目のいずれの遺骨・正墓があるわけでもない。ということであれば、法主である大石寺9世日有からすれば、湯之奥金山の金山衆の「金」の供養が身延山久遠寺や北山本門寺等になびくのを防ぎ、なんとしても大石寺で独占しようと考える。そのためには、大石寺に根本本尊が必要であり、大石寺教学を確立する必要がある。そこで大石寺9世日有が偽作したのが「戒壇の大本尊」「日蓮本仏義」「唯授一人血脈相承」であったわけである。

戒壇大本尊1大正4年由井本1
 

(大石寺「戒壇の大本尊」)

9世日有3(諸記録)
 

(能勢順道氏の著書『諸記録』に載っている大石寺9世日有の肖像画)