■検証2・宗創戦争勃発後の1990年代以降から年々衰退し滅亡の道を歩んでいる正信会2

 

□大石寺66世細井日達の創価学会批判説法に真っ先に呼応した正信会の五老僧・センター

 

「正信会」という名称は、1980(昭和55)7月、日蓮正宗内部の反創価学会運動である「正信覚醒運動」の「活動家」住職・僧侶が大石寺蓮東坊に集結。「正信会」というグループ名を名乗ったのが最初で、当時の大石寺蓮東坊住職は、日蓮正宗宗務院財務部長だった丸岡雄道氏。1980(昭和55)7月当時、日蓮正宗宗会議員の約3分の2近くが「正信覚醒運動」の「活動家」住職。日蓮正宗宗務院役員も藤本栄道(総監)、大村寿顕(日統)教学部長、秋元広学(日高)渉外部長は大石寺67世日顕派だったが、菅野慈雲(日龍)庶務部長兼海外部長、丸岡雄道財務部長は「正信覚醒運動」(正信会)系住職だった。その後、菅野慈雲(日龍)氏、丸岡雄道氏は宗務院役員を解任され、大石寺67世日顕派の早瀬義孔氏が庶務部長に、前川慈筆(日秀)氏が海外部長に、長倉教明(日延)氏が財務部長に任命されている。その早瀬義孔氏が病気退任した後に庶務部長に任命されたのが、早瀬日慈重役(当時)の長男・早瀬義寛氏。後の大石寺68世早瀬日如である。

「正信会」が「正信会」と名乗る以前は、「正信覚醒運動」の「活動家」住職・僧侶と呼ばれていた。彼ら「正信覚醒運動」のリーダー格は、千葉県佐原市(現・香取市)涌化寺住職・丸岡文乗氏、静岡県藤枝市応身寺住職・荻原昭謙氏、大分県別府市寿福寺住職(後に神奈川県小田原教会主管に転任)佐々木秀明氏、兵庫県西宮市堅持院主管・渡辺広済氏、東京・目黒区妙真寺住職・山口法興氏の五氏。これに大石寺66世細井日達法主の直弟子ら200人を超える住職・僧侶がつづいた。先の五人は、当時、若手僧侶だった大石寺66世細井日達の直弟子僧侶よりも格上で、大石寺66世細井日達の創価学会批判説法に真っ先に呼応して、日蓮正宗内部で創価学会批判活動をはじめた僧侶。この五人の中での僧階は渡辺広済氏が最上位になるが、創価学会批判の実績があるのは山口法興氏。この五人は大石寺66世細井日達の創価学会批判説法に真っ先に呼応した「正信覚醒運動」のリーダー格という意味で、「正信会の五老僧」とも「正信会のセンター」とも呼ばれていた。先の五人を「五老僧」とか「正信会のセンター」と呼んでいたのは、「正信会」寺院住職・僧侶・信者自身である。1981(昭和56)年に入って、正信会「会長」の肩書きで日蓮正宗や創価学会等にとりあげられた大阪・淀川区蓮華寺住職・久保川法章氏は、「正信会」系全国檀徒新聞「継命」でも、「正信会」系全国檀徒大会でも、久保川法章氏に使われた肩書きは「宗会議長」である。これは久保川法章氏が1980(昭和55)10月に大石寺67世阿部日顕法主によって第5回全国檀徒大会を主導した「正信会」住職・僧侶が処分される以前まで「宗会議長」だったためで、「正信会」は1980(昭和55)10月の処分を認めない立場から、「宗会議長」の肩書きをその後も使っていた。ではなぜ一時、久保川法章氏が「正信会・会長」となったのか、ということだが、「正信会」は結成後、代表者人事をめぐって紛糾。そこで大石寺67世阿部日顕法主と同じ大石寺60世阿部日開の門弟で、宗会議長の要職にもあり、「正信覚醒運動」の「活動家」住職の中では僧階最上位だった久保川法章氏が「会長」とされて調整が図られたものと思われる。しかし久保川法章氏が「正信覚醒運動」に参加したのは、先の「五老僧」「正信会のセンター」の五人に比べると、ずっと後のことで、この調整人事は失敗に終わり、正式に正信会の代表者としての正信会初代「議長」に選出されて「継命」や全国檀徒大会に登場したのは、「正信覚醒運動」を最初からリードしてきた「正信会のセンター」「五老僧」の中の僧階最上位、兵庫県西宮市堅持院主管・渡辺広済氏であった。

 

 

1970年代後半には日蓮正宗内部の一大派閥と化していた正信覚醒運動の活動家住職・僧侶

 

正信会(正信覚醒運動)の活動に参加していた僧侶の大半は、1959(昭和34)12月の大石寺66世細井日達法主登座以降に、大石寺66世細井日達の弟子として出家した日蓮正宗僧侶。そして彼らの大半が創価学会員の子弟でもあった。彼らは大石寺66世細井日達の弟子であったが故に、大石寺66世細井日達の創価学会批判説法に呼応して創価学会批判活動をするようになったのだったが、先の丸岡文乗、荻原昭謙、佐々木秀明、渡辺広済、山口法興の「正信会の五老僧」「正信会のセンター」と言われた五人は、大石寺66世細井日達の直弟子でもなければ、昭和20年代のころには日蓮正宗僧侶として出家していた。ではなぜ彼らは、率先して日蓮正宗内部で創価学会批判活動に走ったのか。「正信会の五老僧」「正信会のセンター」と言われた五人は、昭和20年代は、まだ教師僧侶になる前の幼少、少年期の所化僧(修行僧)として大石寺で在勤していた。その彼らが大石寺境内で、創価学会員が日蓮正宗僧侶に暴力をふるった「狸まつり事件」「的場正順氏暴行事件」を直接目の当たりにする。これらの創価学会員の暴力事件を震えながら見守っていた彼らの幼心に「創価学会は恐い」という恐怖心が植え付けられ、長じて教師僧侶になり、反創価学会僧侶になっていったという「因果は巡る」説が最も有力である。

「正信覚醒運動」の「活動家」住職・僧侶のグループは、1970年代後半(昭和50年代前半)のころは、すでに日蓮正宗内部の一大グループ、派閥と化していた。彼らは「正信会の五老僧」「正信会のセンター」の五人を筆頭に結束して日蓮正宗内部で創価学会批判活動を展開した。彼らは毎月寺院本堂で行われている「御講」の説法で、創価学会批判説法をした他、創価学会員の葬儀、法事、結婚式、盂蘭盆、彼岸の席でも創価学会員を前に創価学会批判を行った。「正信覚醒運動」の「活動家」住職・僧侶のグループがやり玉に挙げたのは、池田大作の板本尊模刻と「昭和五十二年路線」と言われる教義問題。板本尊模刻は、1974(昭和49)年から1977(昭和52)年にかけて池田大作が8体の紙幅曼荼羅本尊を板本尊に模刻して、創価学会本部や会館に祀ったというもの。普段から聖教新聞と日蓮遺文(御書)しか読んでいなかった創価学会員たちは、「正信覚醒運動」の「活動家」住職の説法に驚き、雪崩のように創価学会を脱会して日蓮正宗寺院の「檀徒」になった。さらに加えて、創価学会脱会・日蓮正宗寺院檀徒になる大きな流れをつくったのが、マスコミ・週刊誌の創価学会批判記事である。当時の週刊誌、月刊誌が創価学会批判の論陣を張り、さらに月刊ペンの池田大作女性スキャンダルが大きく取りあげられたのも、このころである。さらに創価学会vs日蓮正宗の「第一次宗創紛争」が大きくなってくると、マスコミ・週刊誌もこぞって創価学会と日蓮正宗の対立を報道。これを読んだ創価学会員が日蓮正宗寺院を訪ねて創価学会を脱会し、「檀徒」となった。かくして1978(昭和53)年ころから創価学会を脱会して日蓮正宗寺院檀徒になる人がどんどん増えていった。創価学会は1950年代からの「折伏大進撃」で会員信徒は増加する一方だったのだが、これだけの脱会信徒が出たのは創価学会の歴史ではじめてのこと。逆に勢いづいた「正信覚醒運動」の「活動家」住職は、寺院の「御講」、創価学会員の葬儀、法事、結婚式、盂蘭盆、彼岸の席で創価学会批判説法をするにとどまらず、「創価学会を脱会して檀徒にならなければ、葬儀に出仕しない」「法事に出仕しいない」「結婚式に出仕しない」と言って圧力をかけた。これにより当時は、日蓮正宗の寺院住職に葬儀、法事、結婚式を依頼する以外に手がなかった創価学会員は、やむなく創価学会を脱会して檀徒になる道を選ぶ。

堅持院主管・渡辺広済氏
 

(兵庫県西宮市堅持院主管・渡辺広済氏・「正信覚醒運動の歩み」より)

妙真寺住職・山口法興氏
 

(東京・目黒区妙真寺住職・山口法興氏・「正信覚醒運動の歩み」より)

久保川法章1
 

(久保川法章氏)