■検証48・「日蓮本仏義」大石寺9世日有偽作の証拠3・戒壇大本尊偽作と同一人の偽作1

 

大石寺「戒壇の大本尊」と日蓮本仏義の偽作者は同一人・大石寺9世日有である

 

大石寺の「日蓮本仏義」を偽作したのは誰なのか、を解明する上で最大のポイント・証拠は、大石寺の「日蓮本仏義」を偽作した人物は、大石寺の「戒壇の大本尊」なる板本尊を偽作した人物と、同一人であるということ。つまり大石寺の「日蓮本仏義」を偽作した人物は、大石寺9世日有である。日蓮正宗の信仰活動の根幹を成している根本教義に、「戒壇の大本尊」なる板本尊、大石寺法主のみが承継していると自称している「唯授一人の血脈相承」と並んで、彼らの宗祖・日蓮を釈迦牟尼よりも上位にある本仏である、ないしは日蓮と釈迦牟尼は同格の本仏、又は「名異体同」(名前が異なっているだけで、実際は同じ)とする「日蓮本仏義」がある。どうして大石寺の「日蓮本仏義」を偽作した人物は、大石寺の「戒壇の大本尊」なる板本尊を偽作した人物と、同一人なのか。それは、なぜ大石寺9世日有は、「戒壇の大本尊」なるものを偽作したのか、という目的を検証していくと一目瞭然なのである。つまり日蓮正宗大石寺を、日蓮の正墓がある身延山久遠寺や日興の正墓がある北山本門寺を凌いで日蓮門流・富士門流の総本山にするためであり、大石寺9世日有が偽作した「戒壇の大本尊」なる板本尊を教学的に、理論的に正統化する必要性が出てくる。そして大石寺9世日有が、「戒壇の大本尊」なる板本尊を偽作して日蓮真筆だなどと詐称し、日蓮正宗大石寺門流の中心・根本の本尊(法の本尊と日蓮正宗が呼んでいる)に据えた以上、日蓮を根本の仏(末法の本仏・仏の本尊と日蓮正宗が呼んでいる)に据えないと、日蓮正宗大石寺門流の教義の骨格の辻褄が合わなくなる。「戒壇の大本尊」を偽作して「三大秘法」の中心とし、大石寺を「事の戒壇」と定義づけるには、「戒壇の大本尊」=日蓮=本仏という教学理論づけが絶対に必要になる。他の日蓮門下(日蓮宗)が行っているような釈迦牟尼本仏論では、教学理論上、無理が生じる。日蓮の教義の中でも最重要教義としている「本門事の戒壇」に祀る「戒壇の大本尊」なる豪華絢爛な板本尊の“造立主”は、『本仏』でなければならなかった。釈迦牟尼から相承を受けた上行菩薩が末法の世に再誕した僧侶・日蓮という位置づけでは、『本仏』よりも格下の『僧』が根本の『本尊』を説いたことになり、これでは大石寺の教義・大石寺9世日有の教学が自己矛盾に陥ってしまう。大石寺9世日有が「戒壇の大本尊」なる板本尊を偽作した以上、必然的に「日蓮本仏義」が必要になる。だからこそ、大石寺9世日有は歴史上はじめて「日蓮本仏義」を偽作したのである。そして大石寺9世日有は「日蓮本仏義」を偽作するに当り「百六箇抄」「産湯相承事」といったニセ文書を次々と偽作した。つまり大石寺9世日有の「日蓮本仏義」偽作は、「戒壇の大本尊」偽作を明確に証明している「証拠」なのである。

 

 

□大石寺9世日有の「戒壇大本尊」偽作で「戒壇大本尊」=日蓮本仏義が必要になった

 

大石寺9世日有が「日蓮本仏義」「唯授一人の血脈相承」を偽作する必要性が発生したのは、大石寺9世日有自身が「戒壇の大本尊」なる板本尊を偽作して、これを日蓮仏法の「終窮究竟の本尊」「事の戒壇に祀る本尊」としたからである。大石寺9世日有が、「戒壇の大本尊」なる板本尊を偽作して日蓮真筆だなどと詐称し、日蓮正宗大石寺門流の中心・根本の本尊(法の本尊と日蓮正宗が呼んでいる)に据えた以上、日蓮を根本の仏(末法の本仏・人の本尊と日蓮正宗が呼んでいる)に据えないと、日蓮正宗大石寺門流の教義の骨格の辻褄が合わなくなる。仏教の本仏思想においては、基本的に本仏=本尊ということになる。日蓮正宗系の教団以外の日蓮宗・法華宗等では釈迦牟尼如来を本師・本仏として、釈迦牟尼如来の仏像を造立する宗派もあれば、大漫荼羅を本尊としつつも、戒壇建立の暁には、仏像造立すべきとする宗派もある。

大石寺9世日有は、「戒壇の大本尊」なる板本尊を偽作して、

「当宗の本尊の事、日蓮聖人に限り奉るべし」(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨が編纂『富士宗学要集』1p65)

当宗本尊事、日蓮聖人限奉るべし
 

と、「日蓮を本尊とすべき」とはっきりと明示し、これを「戒壇の大本尊」=日蓮としたのだが、そうすると、必然的に釈迦牟尼本仏義では、「戒壇の大本尊」を終窮究竟の本尊とする大石寺9世日有教学では、根本教義が矛盾してしまう事になる。つまり本師・本仏=本尊で、大石寺9世日有は「戒壇の大本尊」=日蓮として、「日蓮を本尊とすべき」としたわけだから、釈迦牟尼本仏義では矛盾してしまう。釈迦牟尼から相承を受けた上行菩薩が末法の世に再誕した僧侶・日蓮という位置づけでは、『本仏』よりも格下の『僧』が根本の『本尊』を説いたことになり、教義が自己矛盾に陥ってしまう。大石寺9世日有は、諸所の説法に於いて

「当宗の本尊の事、日蓮聖人に限り奉るべし」(日蓮正宗大石寺59世法主・堀日亨編纂『富士宗学要集』1p65)

当宗本尊事、日蓮聖人限奉るべし
 

「高祖(日蓮)大聖は我れ等が為に三徳有縁の主師親・唯我一人の御尊位と云へり」(日蓮正宗大石寺59世法主・堀日亨が編纂した『富士宗学要集』2p159)

高祖大聖は我等為に三徳有縁主師親・唯我一人御尊位
 

と説き、又、大石寺9世日有の弟子である左京阿闍梨日教も

「本門の教主釈尊とは日蓮聖人の御事なり」 (『富士宗学要集』2p182収録の左京阿闍梨日教の著書「百五十箇条」より)

本門教主釈尊とは日蓮聖人御事
 

「当家には本門の教主釈尊とは名字の位・日蓮聖人にて御座すなり」

(『富士宗学要集』2p320収録の左京阿闍梨日教の著書「類聚翰集私」より)

当家本門教主釈尊名字位日蓮聖人
 

等と説いているが、大石寺9世日有が「戒壇の大本尊」なる板本尊を日蓮仏法における終窮究竟・最極の本尊と位置付けるには、はっきりと「日蓮=本尊=本仏」とする教学が必要になるということである。日蓮正宗が、教義の中でも最重要教義としている「本門事の戒壇」に祀る「戒壇の大本尊」なる豪華絢爛な板本尊の“造立主”は、『本仏』でなければならないのである。

9世日有3(諸記録)
 

(能勢順道氏の著書『諸記録』に載っている大石寺9世日有の肖像画)

戒壇大本尊1大正4年由井本1
 

(大石寺「戒壇の大本尊」)