■検証3・「本門弘通の大導師」でも「身延山久遠寺の別当」でもなかった大石寺二祖日興2

 

□日興が本当に身延山久遠寺別当ならば「身延離山」しなければならないのは日向のほうだった

 

日興の「身延離山」には、もうひとつ、大きな矛盾点が存在している。

第二の矛盾点とは、波木井実長を教唆した佐渡阿闍梨日向と波木井実長が身延山久遠寺に残り、日蓮正宗に言わせると「血脈相承を受けた法主」であるはずの日興が身延山久遠寺から離山したという点である。 これでは、まるで話がアベコベである。つまり日蓮正宗の見解では、今風に言うと、日興が当時、身延山久遠寺の「別当」であり、「本門弘通の大導師」である「法主」。佐渡阿闍梨日向は「学頭」で、波木井実長は身延山周辺の地頭であり、日興の檀那であった。

日蓮正宗に言わせると、「地頭・波木井実長が、六老僧の一人、日向の軟風にかぶれ、日向にそそのかされるままに四箇の謗法を犯した」ので、「法主」の日興は、「学頭」の日向を義絶(破門)にしたわけだから、本山・身延山久遠寺から出て行かなくてはならないのは、「法主」の日興ではなく、日興から義絶された日向のほうのはずである。

もし本当に日興が、「血脈相承を受けた法主」であったならば、「地頭・波木井実長が、六老僧・日向の軟風にかぶれ、日向にそそのかされるままに四箇の謗法を犯した」からといって、身延山久遠寺から離山する必要など全くない。日興は『二箇相承』『百六箇抄』『本因妙抄』『本尊七箇相承』等々の「血脈相承」という「法主の権威」を示して、「これが目に入らぬか」とばかりに、日向を義絶して、日向のほうを身延山久遠寺から追い出せばいいだけの話しである。つまり身延山久遠寺から出て行かなくてはならないのは、日興ではなく、佐渡阿闍梨日向のほうだったはずである。

ところが、実際に身延山久遠寺から離山していったのは「義絶された」日向ではなく、「義絶した法主」であったはずの日興。こんな矛盾した話しはない。これでは話しがあべこべである。

近年、日蓮正宗大石寺の法主は、妙信講(顕正会)、浅井甚兵衛、浅井昭衛、正信会僧侶、創価学会、池田大作を次々と「破門」しているが、大石寺から出て行ったのは、「破門された」妙信講(顕正会)、浅井甚兵衛、浅井昭衛、正信会僧侶、創価学会、池田大作のほうであって、「破門した」大石寺法主ではない。

日達全集2輯6巻
 

(妙信講(顕正会)、浅井甚兵衛、浅井昭衛を「破門」した大石寺66世細井日達)

67世日顕22
 

(正信会僧侶、創価学会、池田大作を「破門」した大石寺67世阿部日顕)

 

 

□大石寺から出て行ったのは破門された創価学会、正信会、顕正会であり破門した法主ではない

 

大石寺4世日道、5世日行、6世日時の代、大石寺は保田妙本寺の日郷一門と蓮蔵坊の帰属をめぐってはげしい紛争があった。大石寺5世日行の代、大石寺がある上野郷の地頭・興津法西は、1366(貞治5)に、上野郷の地頭・興津法西が日伝に与えた書状「興津法西より日伝への返付状」の中で、日郷一門の日伝を「大石寺別当」(法主)と呼んでいる。これは大石寺一門、大石寺5世日行からすれば、とんでもない不法行為である。この不法は、波木井実長以上の不法であるはずである。波木井実長は日向の指導に信伏随従していたが、まだ日興を直接の師匠だと認めていた。ところが上野郷の地頭・興津法西は、日郷一門の日伝を「大石寺別当」(法主)と呼んでいる。これは、大石寺5世日行からすれば、波木井実長以上の不法であるはずである。ならば日蓮が「地頭の不法ならん時は我も住むまじ」(美作房御返事)などという遺言をしていたというならば、直ちに大石寺を離山しなければならないはずである。

ところが1366(貞治5)に、上野郷の地頭・興津法西が日伝に与えた書状「興津法西より日伝への返付状」によって大石寺5世日行が大石寺を離山したという史実は全くない。

否、それどころか大石寺5世日行は、大石寺を離山するどころか、逆にありとあらゆる手段を使って大石寺・蓮蔵坊を奪い返そうとしている。そして日行の次の法主である大石寺6世日時の代になって、日郷一門は大石寺蓮蔵坊をあきらめて退去している。1366(貞治5)に、上野郷の地頭・興津法西が日伝に与えた書状「興津法西より日伝への返付状」に地頭・興津法西が、日郷一門の日伝を「大石寺別当」(法主)と呼んで、波木井実長以上の不法を行っているにもかかわらず、大石寺5世日行が大石寺を離山しなかったという史実は、まことに重要である。

これについては、「身延山久遠寺は、地頭・波木井実長の所領だったからだ」と言い訳する者がいるが、これは全く誤った見解である。地頭(じとう)とは、鎌倉幕府・室町幕府が荘園・国衙領(公領)を管理支配するために設置した職のことで、在地御家人の中から選ばれ、荘園・公領の軍事・警察・徴税・行政をみて、直接、土地や百姓などを管理した、いわば「幕府の役人」なのであって、領主のことではない。又、日蓮正宗の信者は、

「地頭の不法ならん時は我も住むまじき由、御遺言には承り候えども不法の色も見えず候。」

という「美作房御返事」の文を以て、日興の身延離山を正統化しようとするが、残念ながら、「美作房御返事」という日興の遺文は、後世の偽作である。

「「地頭の不法ならん時は我も住むまじき由」の「美作房御返事」は後世の偽作文書」

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/28957051.html

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/29108524.html

つまりこれら歴史的史実は、日興には『二箇相承』『百六箇抄』『本因妙抄』『本尊七箇相承』等々の「唯授一人の血脈相承」という「錦の御旗」「水戸黄門の印籠」とも言うべき「法主の権威」はなかったということである。「唯授一人の血脈相承」という「法主の権威」があれば、日興は身延山久遠寺から、学頭・日向を追放していたはずである。しかし、日興は日向を追放できなかったばかりか、『二箇相承』『百六箇抄』『本因妙抄』『本尊七箇相承』等々の「唯授一人血脈相承」という「法主の権威」を、民部阿闍梨日向と波木井実長に示すということすら、しなかった。日興には『二箇相承』『百六箇抄』『本因妙抄』『本尊七箇相承』等々の「唯授一人の血脈相承」という「法主の権威」はなかったという、何よりの証拠である。

二箇相承3
 

(1970年刊『仏教哲学大辞典』に載っている『二箇相承』