■検証4・日興が身延山久遠寺第二祖貫首に登座した史実は存在しない

 

□血脈相承を受けて日興が身延山久遠寺二祖に晋山したら弟子・信者の誰も知らないはずがない

 

だいたい弘安5(1282)10月当時において、日蓮が末代の衆生のために、『二箇相承』『百六箇抄』『本因妙抄』『本尊七箇相承』等々の「血脈相承」を日興に相承し、日興が日蓮の遺命のままに第二祖に登座したとすれば、身延山に登山参拝した弟子・僧侶や信者たちが、そういう事実を知らないなどということは絶対に有り得ない。 当たり前のことである。そして、日蓮の弟子の誰かが日興が身延山久遠寺第二祖に登座したことを、書き残したはずである。何らかの記録に残っているはずである。当然ではないだろうか。

しかるに、誰もこの当時、『二箇相承』『百六箇抄』『本因妙抄』『本尊七箇相承』等々の「血脈相承」ばかりか、日興が第二祖になったということを書き残していない。そのような記録は全く残っていないし、過去にそのような記録が存在していたという形跡や痕跡も全くない。身延山に登山参拝した弟子・僧侶や信者たちどころか、誰一人として日興が第二祖に登座したということを知らないのである。日蓮は書き残した遺文(御書)の各所で、身延山の日蓮のもとに参詣する信者が、たくさんいたことを書き残している。三間四方の質素な造りであった身延山中の日蓮の草庵に、日蓮が天台大師智顗の命日に営んでいた「大師講」での説法の折りなどに百人を超える人たちが参詣に訪れたとあっては、「御制止ありて入れられず」 (日蓮56歳の建治36月の遺文(御書)『下山御消息』平成新編御書全集p1137・堀日亨編纂・御書全集p343) と日蓮自らが記しているように、説法を聴聞する人たちを規制せざるをえないほどになっていた。 それでも日蓮が

「ものの様をも見候はんがために閑所より忍びて参り、御庵室の後にかくれ」(日蓮56歳の建治36月の遺文(御書)『下山御消息』平成新編御書全集p1137・堀日亨編纂・御書全集p343)

と書いているように、ひと目でも日蓮の説法の様子を見ようとして、草庵の便所に隠れて日蓮の説法を聴聞したり、あるいは草庵の後に隠れて日蓮の説法を聴聞していた人がいたという。

日蓮の説法の折りには、これだけの参詣者で賑わっていた日蓮の草庵である。弘安2(1279)10月当時、日興が身延山久遠寺第二祖に登座したとすれば、日蓮の弟子・僧侶や信者たちが、日興が身延山久遠寺第二祖に登座したということを誰も知らないはずがない。

『二箇相承』『百六箇抄』『本因妙抄』『本尊七箇相承』等々の「血脈相承」や日興が身延山久遠寺第二祖になったことについて、誰も一言も書き残していないというのは、そのような史実は存在していなかったということであり、日興が身延山久遠寺第二祖になった、などという事実もなかった証拠である。日蓮の遺骨が遺命によって身延山久遠寺に送られ、西谷の地に遺骨が葬られて日蓮の正墓が築かれた。これが今の御廟所の墓塔であり、これを守護する順番が弟子たちによって決められた。六老僧をはじめとする弟子たちは、各地で布教をしていたので、交替で身延山に登山参詣し、日蓮の墓塔に仕える「守塔輪番制」が決められた。

 

 

□身延山久遠寺第二祖貫首に晋山したのは白蓮阿闍梨日興ではなく佐渡阿闍梨日向である

 

「正月 弁阿闍梨(日昭) 二月 大国阿闍梨(日朗) 三月 越前公 淡路公(日賢) 

四月 伊予公(日頂) 五月 蓮華阿闍梨(日持) 六月 越後公(日弁) 下野公(日秀)

七月 伊賀公 筑前公 八月 治部公(日位) 和泉公(日法) 九月 白蓮阿闍梨(日興) 

十月 但馬公 卿公(日目) 十一月 佐渡公(日向) 十二月 丹波公(日秀) 寂日坊(日華)

(西山本門寺蔵「御遷化記録」)

身延山墓所番長1


日蓮宗宗学全書2巻
 

(日蓮宗宗学全書第2p106)

六老僧はそれぞれ一ヶ月ずつ。他の六ヶ月は12名の中老僧と六老僧につづく高弟が二人で一ヶ月ずつ身延山の日蓮墓塔を守護することに決まった。この中に日興の弟子が数人入っているのは、身延山にほど近い駿河地方を布教拠点としていたからだと考えられる。

しかしながら身延山で丸一ヶ月の奉仕を続けるためには、当時の交通事情からして、かなりの日数と労力、費用を要することになる。鎌倉に布教拠点を置く日昭や日朗は、身延山まで片道五日、往復十日を費やす。藻原の日向や真間の日頂はさらに多くの日数を費やすことになる。

これにより各地の布教活動に影響が出て、信者の動揺も出てきたことから、日蓮三回忌のころには、輪番制の実行が難しくなってきていた。そこで輪番奉仕が現実になされていないことが六老僧・十二老僧の間で問題になり、六老僧の日向が身延山に登山して身延山樋沢坊に常住。日向は学頭職として、日興・日向が身延山に常住するようになった。ところが厳格な人柄の日興は、地頭の南部六郎実長と、何かと衝突することになる。正応元年(1288)の日蓮七回忌にあたって、身延山久遠寺専任の住職を置いて、日蓮墓廟を守護することになった。南部実長の要請によって日向が身延山久遠寺の二祖として法灯を継承したのである。南部実長は、厳格な性格で何かと衝突していた日興を拒否し、日向を身延山久遠寺二祖として要請したのである。

日蓮宗や身延山久遠寺の公式見解では、1288(正応元年)の日蓮七回忌の時に、日向が身延山久遠寺第二祖になったという見解である。日蓮が「二箇相承」を書き残して日興に血脈相承していたら、日興が身延離山する以前の1288(正応元年)の日蓮七回忌の時に、日向が身延山久遠寺第二祖として晋山するはずがない。日蓮の草庵には、こんなにも参詣者がいたにもかかわらず、日蓮の弟子の僧侶や信者が誰も『二箇相承』『百六箇抄』『本因妙抄』『本尊七箇相承』等々の「血脈相承」について知らないというのは、日興が身延山久遠寺第二祖になったという史実がなかった何よりの証拠である。すなわち『二箇相承』『百六箇抄』『本因妙抄』『本尊七箇相承』等々の「血脈相承」が 日興在世当時に存在していなかった証拠である。

二箇相承3
 

(1970年刊『仏教哲学大辞典』に載っている『二箇相承』