■検証3・宗創戦争勃発後の1990年代以降から年々衰退し滅亡の道を歩んでいる正信会3

 

□池田大作・創価学会の傀儡と化し創価学会を糾すことに全く消極的だった1970年代の宗務院

 

日蓮正宗の宗務行政は、頂点に日蓮正宗管長・代表役員である大石寺法主が君臨し、その下に宗務総監を長とする宗務院があって、これが日蓮正宗内部の行政機関に相当し、宗務行政を司る。そして日蓮正宗内部の立法機関に相当する宗会と、日蓮正宗内部の司法機関に相当する監正会がある。ところが1978(昭和53)年ころから、大石寺66世細井日達法主は、宗務院とは別に、「正信会五老僧」をはじめとする日蓮正宗内部の反創価学会系僧侶を扇動して、池田大作や創価学会を糾そうとした。なぜ通例のように、宗務院主導で池田大作や創価学会を糾そうとしなかったのか。それは1970年代の宗務院が、完全に池田大作や創価学会の傀儡と化していて、創価学会を糾すことについて、全く消極的だったからである。当時の宗務院は早瀬日慈総監を筆頭に阿部信雄(日顕)教学部長(後の大石寺67世法主)、藤本栄道(日潤)庶務部長(大石寺67世日顕の代の総監、大石寺68世日如の代の重役)、吉田義誠(日勇)渉外部長、能勢順道財務部長。特に大石寺66世細井日達法主は、早瀬日慈総監(法道院三代主管・大石寺67世日顕の代の重役・大石寺68世日如の父親)が、創価学会の傀儡であるとの強い不満を持っていた。当時の宗務院が創価学会の傀儡化していた象徴的な事例がある。大石寺66世細井日達法主と創価学会三代会長・法華講総講頭・池田大作との不協和の最初は、1973(昭和48)1014日、大石寺での正本堂建立一周年記念法要の席で、池田大作が公衆の面前で「十億、本山から学会に寄付して下さい」「二人で話し合ったことが壊れるようでは信用できません。これからは皆の前で堂々とやります」「もう隷属はしません」「皆が欲しいのは慈悲です」「(富士)学林もそっちで建てて下さい」等々と、大石寺66世細井日達法主を怒鳴りつけた事件だとされる。

池田大作・日達罵倒事件1
 

(1973(昭和48)1014日、大石寺・正本堂建立一周年記念法要で、池田大作が大石寺66世細井日達を怒鳴りつけた発言を記録した創価学会内部文書「正本堂退出路における先生の直言」)

その3日後の1017日、日蓮正宗総監・早瀬日慈氏と創価学会副会長・北条浩氏の間で「覚書」が交わされた。内容は以下の通りである。

「覚書

一、 創価学会の多年に亘る広布創業の労に対し、宗門は満腔からの謝意を表し、ここに一金壱拾億円也を贈る。この支払いに就いては別紙の通りとする。

二、 正本堂基金三億七千六十万円(現在高)については、昭和四十九年四月以降、創価学会に於いて自由に使用して頂きたい。

三、 富士宮市の市民センター建設に対する寄付。要望については、大石寺として七億円を考える。本件については、創価学会と緊密に連携を保ちつつ対処する。

四、 富士学林の建設は大石寺で行う。       以上

昭和四十八年十月十七日

                        日蓮正宗総監      早瀬日慈 印

                        創価学会副会長     北条 浩 印」

昭和48年・宗務院・創価学会覚書1
 

(昭和48(1973)1017日、日蓮正宗総監・早瀬日慈氏と創価学会副会長・北条浩氏の間で交わされた「覚書」)

 

 

□「正信覚醒運動」を過激にリードしていった「裏の宗務総監」「裏の宗務院・正信会の五老僧」

 

この「覚書」は、写真を見れば一目で分かることだが、「覚書」の文面は、日蓮正宗から創価学会に宛てられた文面であるのに、「覚書」の筆跡は創価学会の北条浩副会長(のちの創価学会四代会長)が書いたもの。つまり早瀬日慈総監は、北条浩副会長が書いた「覚書」に署名・捺印しただけで、ほとんど創価学会べったり、創価学会の傀儡と化していた。大石寺66世細井日達法主が、大石寺64世水谷日昇法主の代に宗務院庶務部長だったころ、早瀬日慈(道応)総監は宗務院教学部長。二人は、法主と総監ではあったが、同時にライバルの関係にもあった。

1973(昭和48)1014日、大石寺での正本堂建立一周年記念法要の席で、池田大作が公衆の面前で怒鳴りつけた事件を大石寺66世細井日達は「無礼だ」と憤るが、日蓮正宗宗務院のトップである早瀬日慈総監は創価学会べったり、創価学会の傀儡と化し、創価学会を糾すことについて、全く消極的だった。かくして大石寺66世細井日達法主は早瀬日慈総監に不信感を持つようになり、宗内若手住職に「創価学会を糾せ」と命じる。法主直々に命じられた僧侶は、千葉県佐原市(現・香取市)涌化寺住職・丸岡文乗氏、静岡県藤枝市応身寺住職・荻原昭謙氏、大分県別府市寿福寺住職(後に神奈川県小田原教会主管に転任)佐々木秀明氏、兵庫県西宮市堅持院主管・渡辺広済氏、東京・目黒区妙真寺住職・山口法興氏のいわゆる「正信会五老僧」。そして大石寺66世細井日達法主の娘婿の東京・大宣寺住職・菅野慈雲(日龍)氏。さらにつづいて福岡・無辺寺住職・児玉大光氏、千葉・蓮生寺住職・菅野憲道氏らである。この中で日蓮正宗内部の反創価学会運動である「正信覚醒運動」を過激に押し進めてリードしていったのは丸岡文乗氏、荻原昭謙氏、佐々木秀明氏、渡辺広済氏、山口法興氏の「正信会五老僧」だが、大石寺66世細井日達法主とのパイプ役になったのが、細井日達法主の娘婿の菅野慈雲(日龍)氏。早瀬日慈総監、阿部信雄(日顕)教学部長(後の大石寺67世法主)、藤本栄道(日潤)庶務部長、吉田義誠(日勇)渉外部長、能勢順道財務部長の「表」の宗務院に対して、菅野慈雲(日龍)氏が「裏の宗務総監」、菅野慈雲(日龍)氏と丸岡文乗氏、荻原昭謙氏、佐々木秀明氏、渡辺広済氏、山口法興氏の「正信会五老僧」は「裏の宗務院」と呼ばれるようになっていった。かくして「正信覚醒運動」は「表」の宗務院をさしおいて、「裏の宗務院」を主導に進められていくようになり、1973(昭和53)年ころには、「表」の宗務院の機能は、マヒ状態に陥っていく。この日蓮正宗・創価学会の第1次紛争の中で、大石寺66世細井日達法主から直々に命じられて、山崎正友・創価学会顧問弁護士(当時)が、日蓮正宗と創価学会の調整役に入ったと、山崎正友氏自ら、著書の中で独白している。

堅持院主管・渡辺広済氏
 

(兵庫県西宮市堅持院主管・渡辺広済氏・「正信覚醒運動の歩み」より)

妙真寺住職・山口法興氏
 

(東京・目黒区妙真寺住職・山口法興氏・「正信覚醒運動の歩み」より)

山崎正友6
 

(山崎正友氏)