■検証60・「日蓮本仏義」日尊門流・京都要法寺偽作説は誤りである5

 

□京都要法寺13祖日辰「二論議」は日蓮本仏義・百六箇抄が京都要法寺の偽作ではない証拠

 

京都・要法寺13祖貫首・広蔵院日辰が著書『開迹顕本法華二論議得意抄(二論議)』の中で

「御正筆の血脈書を拝せざる間は謀実定め難し」---百六箇抄・本因妙抄の二つの血脈抄は、日蓮の正筆(真筆)を拝して中身を見極めるまでは、日蓮真筆なのか、あるいは誰かの手による偽作なのか、判断が出来ない(『開迹顕本法華二論議得意抄(二論議)5巻・日蓮宗宗学全書3p370)

二論議・不拝正筆謀実難定1


二論議・不拝正筆謀実難定2


日蓮宗宗学全書1
 

と述べている。これは、「百六箇抄」なる文書を偽作したのは、京都・日尊門流・要法寺ではない、ということを明確に物語っている。と同時に、「日蓮本仏義」を偽作したのは京都要法寺ではないという明確な証拠である。特に京都・要法寺13祖貫首・広蔵院日辰が著書『開迹顕本法華二論議得意抄(二論議)』の「御正筆の血脈書を拝せざる間は謀実定め難し」の言は、:決定的である。もし「百六箇抄」が京都・要法寺で偽作された文書だったとしたならば、「日蓮本仏義」が京都要法寺門流に古来から伝承する伝統法義だったならば、京都・要法寺13祖貫首・日辰はこんな言い方をしなかったはずである。こういう言い方をしなかったどころか、「百六箇抄」を日蓮真筆だと、「日蓮本仏義」は日蓮の教義だと明言しているはずである。しかも「日蓮の正筆(真筆)を拝して中身を見極めるまでは、日蓮真筆なのか、あるいは誰かの手による偽作なのか、判断が出来ない」と日辰が言っているということは、「百六箇抄」という文書が要法寺に元々あった文献ではなく、他門流から京都要法寺に輸入された文書であることを、明確に物語っている。ではなぜ京都・要法寺13祖貫首・日辰は、こんなことを言ったのか。それは「百六箇抄」の中に

「三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺本堂なり」「直達の法華は本門、唱ふる釈迦は迹なり。今日蓮が修行は久遠名字の振舞に芥爾計も違はざるなり」 「下種の法華経教主の本迹、 自受用身は本、上行日蓮は迹なり、我等が内証の寿量品とは脱益寿量の文底の本因妙の事なり。其の教主は某なり」「久遠名字より已来た本因本果の主、本地自受用報身の垂迹、上行菩薩の再誕、本門の大師日蓮」「白蓮阿闍梨日興を以て惣貫首と為して、日蓮が正義悉く以て毛頭程も之れを残さず、悉く付属せしめ畢ぬ。 上首已下並に末弟等異論無く、尽未来際に至るまで予が存日の如く、日興嫡嫡付法の上人を以て惣貫首と仰ぐべき者なり」 「又五人並に已外の諸僧等、日本乃至一閻浮提の外万国に之を流布せしむと雖も、日興嫡嫡相承の曼荼羅を以て本堂の正本尊と為すべきなり」「日蓮大将なれば上行菩薩か・日目は毎度幡さしなれば浄行菩薩か」

「又広宣流布の日は上行菩薩は大賢臣と成り・無辺行菩薩は大賢王と成り・浄行菩薩は大導師と成り・安立行菩薩は大関白或いは大国母と成り、日本乃至一閻浮提の内一同に四衆悉く南無妙法蓮華経と唱へしめんのみ、四大菩薩同心して六万坊を建立せしめよ。何れの在処為りとも多宝富士山本門寺上行院と号す可き者なり」といった、京都・要法寺13祖貫首・日辰が「未聞未見」の教義が、山のように満載されているからである。したがって、この京都・要法寺13祖貫首・日辰の言は、「日蓮本仏義」「百六箇抄」を偽作したのは、京都・要法寺ではない、ということを明確に物語るものである。

百六箇抄6(富士山本門寺本堂)


百六箇抄7(日興嫡嫡相承本堂正本尊)


百六箇抄8(十万貫・日目大導師)


百六箇抄9(末文)
 

(百六箇抄)

 

 

□京都要法寺13祖日辰の「二論議」を「百六箇抄」日蓮真書説にこじつける高橋粛道説を斬る

 

京都・要法寺13祖貫首・広蔵院日辰が『開迹顕本法華二論議得意抄(二論議)』という著書の中で

「御正筆の血脈書を拝せざる間は謀実定め難し」(『二論議』5巻・日蓮宗宗学全書3p370)

---「日蓮正筆を拝して中身を見極めるまでは、日蓮真筆なのか、あるいは誰かの手による偽作なのか、判断が出来ない」と述べていることについて、日蓮正宗僧侶・高橋粛道氏が、これを何としても「百六箇抄」真筆説に無理矢理にでもこじつけようとして、次のような妄説を吐いている。

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(日蓮正宗僧侶・高橋粛道氏の妄説)

少なくとも、『二論議』には両巻血脈抄を引用していることは確かである。偽書なら引用するはずもないのであり、日辰は両書を排斥していないことに注視すべきである。先に引用した『二論議』に日辰は、「百六箇抄」の文を引き、自受用身は本、上行日蓮は迹と判じて百六箇抄の文を釈迦本仏の論拠にしているが、その引用がどうあれ、それは富士門との解釈の相違を示しただけで日辰が偽書扱いしていることにならない。たとい日辰がどのように解釈しても、その成立を否定するものではない。(高橋粛道氏の論文『百六箇抄の真偽・浅井要麟氏の説に対して』)

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この高橋粛道氏の論文は、京都・要法寺13祖貫首・日辰の『開迹顕本法華二論議得意抄(二論議)』の文の中身をろくに検証もせずに、ただ日辰が「百六箇抄」を引用しているだけで、偽書扱いしていることにはならず、したがって「百六箇抄」は日蓮の真書だ、というのである。こんな暴論があろうか。日辰の『開迹顕本法華二論議得意抄(二論議)』の文の意味は

「日蓮正筆を拝して中身を見極めるまでは、日蓮真筆なのか、あるいは誰かの手による偽作なのか、判断が出来ない」というものであり、明らかに「百六箇抄」の内容について不信を表明したものである。であるにも関わらず、「日辰がどのように解釈しても、その成立を否定するものではない」などと言って、何が何でも「百六箇抄」真書説に結びつけようとするのは、こじつけも甚だしい。

逆に言えば、日蓮正宗の「百六箇抄」真書説は、もはや完全に根拠を失っているということを、日蓮正宗僧侶・高橋粛道氏が認めたものであると言うべきである。

要法寺17表門


要法寺24鐘楼本堂


要法寺1本堂1
 

(現在の日蓮本宗本山・京都要法寺)