■検証6・大石寺9世日有以前の大石寺門流に「唯授一人の血脈相承」は存在しなかった2

 

□本当に「唯授一人血脈相承」があったら日仙と日代は大石寺上蓮坊で問答する必要がなかった

 

日蓮正宗大石寺開祖・日興、三祖・日目が死去した翌年の1334(元弘4)17日、大石寺上蓮坊(百貫坊)にて、勤行のときに方便品を読むべきか、読まざるべきかという問題を巡って、日興の弟子で、上蓮坊(百貫坊)開基・日仙と、日興から北山本門寺後継住職に附嘱された日代の間で、「仙代問答」と言われる問答が起こった。この問答は、単なる問答では終わらず、富士門流の中に混乱・内紛を惹起し、最終的に日仙は、自らが開祖となった四国・讃岐本門寺に下向していった。

日代は、その後、北山本門寺檀那・石川実忠によって北山本門寺から擯出(追放)され、河合の地に移って西山本門寺を開創して開祖となった。1343(興国4)年のことである。

この「仙代問答」も、富士門流の中に、大きな分裂劇を引き起こした事件になった。

日蓮正宗に言わせると、「仙代問答」が起こった1334(元弘4)年、時の大石寺法主は、三祖・日目から血脈相承されたという大石寺4世日道であったはずである。しかし、この「仙代問答」が起こったということ自体、「唯授一人の血脈相承」や「二箇相承」「日興跡条条事」と全く矛盾しているのである。これは、どういうことか。日蓮正宗では、相伝書である「唯授一人の血脈相承」「二箇相承」「日興跡条条事」を受けた大石寺法主は、教義について紛争が生じた場合には、教義について最終的な裁定を下す立場にある。もし1334(元弘4)年当時において、大石寺三祖・日目から「唯授一人の血脈相承」「二箇相承」「日興跡条条事」を受けた法主として大石寺4世日道がいたならば、勤行のときに方便品を読むべきか、読まざるべきかという問題が生じたならば、日仙と日代は問答をするのではなく、「唯授一人の血脈相承」「二箇相承」「日興跡条条事」を受けた法主である大石寺4世日道に裁定を仰いでいたはずである。そしてその大石寺4世日道の裁定に従えばいいだけの話しで、日仙と日代は二人で問答をする必要など全くないのである。しかし、当時の史料を繙いても日仙と日代が、大石寺4世日道に教義の裁定を仰いだ史実もなければ、日道が方便品の読不読問題について日仙と日代に対して裁定したという史実もない。日蓮正宗の信者は、

「日興上人御跡の人人、面面に法門を立て違へ候。(中略)唯、日道一人正義を立つる間、強敵充満候」(歴代法主全書1p287

遺日尊之状(歴代法主全書)
 

の、大石寺4世日道の文を以て、大石寺4世日道は血脈を承継する付弟としての強い自覚を持って、先師以来の正義を厳守したなどと言い訳をするが、それならば、どうして大石寺4世日道は「日仙・日代問答」に介入して、教義の裁定をし、問答をやめさせようとしなかったのか。しかもこの問答は、大石寺4世日道のお膝元の大石寺上蓮坊で行われたものである。

 

 

□大石寺内部の教義問題は法主が裁定するのであって問答法論で決着するのではない

 

しかも問答を行った日仙も日代も、大石寺4世日道には一切、裁定を仰がずに問答をやっているわけだから、法主・大石寺4世日道は完全に二人に無視されている。これでは大石寺4世日道の「法主の権威」は丸潰れである。こんな矛盾した話しは、ないではないか。

20世紀の現代でも、こんなことがあった。1970(昭和45)年の妙信講と創価学会による「正本堂の意義付け問題」の論争が燃えさかる中、妙信講の浅井甚兵衛講頭・浅井昭衛理事長の父子が、創価学会の池田大作会長他、創価学会最高首脳に対して「正本堂は日蓮遺命の戒壇かどうか」「日蓮遺命の戒壇とは国立戒壇かどうか」について、問答・法論を挑んだことがあった。

この様子を見ていた日蓮正宗宗門首脳、なかんずく大石寺66世細井日達法主は、妙信講と創価学会の法論、つまり日蓮正宗の信徒同士の法論を許可せず、信徒同士の法論禁止を申しわたした。そして「どうしてもやりたいと言うなら、両者とも日蓮正宗から出て行ってから、やってくれ」と言ったという。この史実は「正本堂の意義付け問題」の経緯を伝える妙信講側の資料に載っている。

日蓮正宗の宗規第7条によれば、法主は「教義に関する正否を裁定」することになっており、信徒同士の法論で教義の正否を決定するとはなっていない。よって細井日達法主の布告も、この日蓮正宗宗規を根拠にしたものと思われる。つまり大石寺内部の教義問題は法主が裁定するのであって問答法論で決着するのではない、ということである。だから「正本堂の意義付け問題」のときに、細井日達法主は妙信講と創価学会の問答法論禁止を布告したわけである。

「大石寺内部の教義問題は法主が裁定するのであって問答法論で決着するのではない」ということであれば、では1334(元弘4)17日、大石寺上蓮坊(百貫坊)にて、勤行のときに方便品を読むべきか、読まざるべきかという問題を巡って、日仙と日代の間で「仙代問答」と言われる問答が起こったことは、全く矛盾した話になる。大石寺内部の教義問題は法主が裁定するということであれば、勤行のときに方便品を読むべきか、読まざるべきかという問題について、大石寺4世日道の裁定を待てばいいわけであって、二人は問答を行う必要が全くないからである。

つまりこの「日仙・日代問答」にまつわる史実は、何を意味しているのだろうか。

「唯授一人の血脈相承」「二箇相承」「日興跡条条事」なるものは当時は存在せず、「法主の権威」も「錦の御旗」も存在しなかった。だから日仙も日代も大石寺4世日道に裁定を一切仰がず、日道も教義の裁定も日仙日代問答への介入もを全くせず、大石寺4世日道を全く無視して「仙代問答」が行われたということである。この「仙代問答」が行われたという史実そのものも、大石寺9世日有以前の大石寺には、「唯授一人血脈相承」「二箇相承」なるものが存在していなかった明確な証拠なのである。

日達全集2輯6巻
 

(大石寺66世細井日達法主)

二箇相承3
 

(1970年刊『仏教哲学大辞典』に載っている『二箇相承』