■検証7・大石寺9世日有以前の大石寺門流に「唯授一人の血脈相承」は存在しなかった3

 

□「血脈相承」ではなく今川家と鎌倉管領の介入により政治的に解決した「蓮蔵坊七十年紛争」

 

1333(正慶2)年から1403(応永10)年にいたる70年の長い間、大石寺4世日道の一門と、保田妙本寺・小泉久遠寺の開祖・日郷の一門の間で、大石寺塔中にある蓮蔵坊の帰属を巡って、紛争が起こった。1333(正慶2)年とは、大石寺3祖日目が美濃国(岐阜県)垂井で死去して随行の僧侶・日郷が大石寺に帰ってからのこと。この蓮蔵坊七十年紛争は、日郷一門が蓮蔵坊を占拠したり、大石寺4世日道一門が占拠したり、そうかと思うと、日郷一門が大石寺の境内地の中に東御堂を建てて、大石寺4世日道一門に対抗したり、両者による壮絶な紛争になっていた。 蓮蔵坊は、1338(建武5)年、上野郷の地頭・南条時綱が日郷に寄進状を発行して日郷一門に帰したが、それでも大石寺4世日道一門と日郷一門の紛争は止まず、南条時綱の子・時長が地頭になって後、再び時長が日郷一門に証状を出した。

時長証状により蓮蔵坊を安堵(土地所有を公認されること)された日郷は、1345(康永4)年、上洛して京都守護職の案内を得て、念願の天奏を果たし、1353(正平8)年、61歳で死去した。

日郷門流の本山・保田妙本寺の開祖・日郷の後継貫首は、南条時綱の子・日伝である。日伝は幼名を牛王丸、出家して日賢と名乗り、後に日伝と改名した。

大石寺は1339(延元4)6月、大石寺4世日道から大石寺5世日行に代替わりした。

保田妙本寺開祖・日郷は1340(興国1)年、1344(興国5)年、1347(正平2)年、度々、京都に上洛して京都・鳥辺山に葬られた大石寺・保田妙本寺三祖日目墓所の地を買い求めている。1365(正平20)年、保田妙本寺開祖・4世日郷の後継貫首・保田妙本寺5世日伝(日賢)が、日郷と同じように京都・鳥辺山の大石寺・保田妙本寺三祖日目墓所の地を買い求めている。

1359(正平14)年、日郷一門の日叡が中心になって大石寺に東御堂を建てた。

1363(正平18)年、日郷一門を支えてきた上野郷の地頭・南条時長が死去し、上野郷の地頭は、河東の代官・興津法西が兼務するようになった。

1365(正平20)年、かつての日興の坊舎であった白蓮坊(西大坊)を修復して住んでいた大石寺4世日道の後継法主・大石寺5世日行が、日郷一門の後継貫首・日伝が安房国(千葉県)にいることを幸いに、地頭・興津法西に取り入り、日郷一門の僧侶たちは、蓮蔵坊から追放されて、大石寺5世日行一門が占拠するところとなった。 この事態に驚いた日郷一門の貫首・日伝は、駿河国の領主・今川家に訴えた。 今川家は、さっそく真偽のほどを正せと興津法西に厳命。これに驚いた興津法西が厳密に調査したところ、日伝側には確かに南条時綱、南条時長の寄進状や日郷の置き文などの証状があるが、大石寺5世日行側には何の証状もない。そこでこれは明らかに日行側の我欲による陰謀と断定して、興津法西は大石寺5世日行を叱責するとともに、彼に与えた証状をとり上げて、日伝に詫び、蓮蔵坊は再び、日伝側に戻ることになった。

 

 

□もし本当に「唯授一人の血脈相承」が存在していたら蓮蔵坊七十年紛争は起こるはずがない

 

そして最後は、大石寺5世日行の跡を継いだ大石寺6世日時一門が、上野郷の地頭・興津又六を見方にして、日郷一門(日伝)を大石寺から追い出した。今川家は地頭・興津又六に問題解決を促したが、地頭・興津氏は鎌倉管領に問題解決を委ね、これにより問題は、駿河国の大名・今川家と鎌倉管領の間の問題に発展。 これにより、日郷一門の貫首・日伝は、今川家や鎌倉管領に迷惑をかけることをよしとせず、大石寺・蓮蔵坊を断念。1403(応永10)年、蓮蔵坊の所有権は大石寺6世日時に、つまり大石寺4世日道・大石寺5世日行・大石寺6世日時一門、いわゆる今の大石寺一門のものとして最終決着している。この紛争の影響で大石寺一門は大きく疲弊し、経済的にも困窮を窮めることになる。

この蓮蔵坊七十年紛争も、もし本当に「唯授一人の血脈相承」なるものが存在していたら、起こるはずがない紛争である。保田妙本寺開祖・日郷が京都から大石寺に帰った後に、蓮蔵坊の所有権を主張しても、大石寺4世日道が相伝書である「二箇相承」「日興跡条条事」や「唯授一人の血脈相承」という「法主の権威」で、蓮蔵坊の所有権を裁定して日郷を大石寺から追い出せばいいだけの話しであり、こんなに紛争が七十年もつづくはずがない。しかもこの紛争は、「二箇相承」「日興跡条条事」や「唯授一人の血脈相承」で解決したのではなく、駿河国の大名・今川家と鎌倉管領が介入して、政治的に解決したものである。これでは「二箇相承」「日興跡条条事」や「唯授一人の血脈相承」の影も形もない。この蓮蔵坊七十年紛争も、大石寺9世日有以前の大石寺に「二箇相承」「日興跡条条事」や「唯授一人の血脈相承」が存在していなかった証拠なのである。

大石寺蓮蔵坊2
 

(大石寺蓮蔵坊)

保田妙本寺1
 

(保田妙本寺)

小泉久遠寺13客殿
 

(小泉久遠寺)

二箇相承3
 

(1970年刊『仏教哲学大辞典』に載っている『二箇相承』

日興跡条条事2
 

(昭和5549日付け聖教新聞に掲載されている『日興跡条条事』)