■検証12・日興が身延山久遠寺第二祖貫首に登座した史実は存在しない5

 

□葬儀・葬列・法要は法席・僧階が最上位の僧侶が大導師を勤めるのが仏教界の通例

 

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(法華講員・辻野けんゆう2gの妄説)

大聖人の御葬儀において、葬列で前陣の朗師が読経唱題の際に副導師を勤め、葬列で後陣の昭師が読経唱題の際に大導師を勤めたという証拠は一体何ですか?

(かつてGREE「アンチ日蓮正宗」に居た日蓮正宗信者が掲示板に書いた書き込み)

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たとえばひとつの例を示すと、日蓮正宗の僧侶社会の僧階がどうなっているかを調べるには、日蓮正宗大石寺での大きな法要における僧侶の「法席」の順序を見ればほぼわかる。僧侶の「法席」というのは、法要における僧侶が着席する席順と言うこと。つまりこれはほぼ「僧階」=「法席」になっている。現在、日蓮正宗では教師の僧階が13階級、所化の僧階が4階級設けられていますが、同じ階級に何十人という僧侶がいて、同じ階級の中でも順序が付けられている。つまり大僧都に三十人いたとすれば、その三十人にも順序がある。では同じ僧階の中での順序はどうやって決めるかというと、まずその僧階に任じられた順番。それも同じなら「法臘」。僧階も「法臘」も同じだったら年齢とか。そんな感じで、全てに順序が決められていて、しかもその「僧階」の順序は、絶対的な身分差として、存在している。

法席のトップは、もちろん法主であり、大導師ということになるが、これはすなわち「僧階最上位」の人物ということになり、日蓮正宗では「僧階最上位」とは大僧正、つまり法主ということです。

僧侶社会では「法席のトップ=大導師=僧階最上位」というのは当然、ということだ。

では、僧侶社会の僧階は一体誰が決めるのか、ということですが、日蓮正宗では、当然のことながら、法主(管長)の意向で宗務院が決める。では同じ僧階の中の順序は、僧侶社会の常識として「任じられた順番」「法臘」ということで決められる。

ひるがえって、日蓮一門の僧階は、誰が決めるのか、といえば、日蓮が元気に生きていた時代であれば、それは当然、日蓮が決めるということになる。その日蓮はどこまでを決めたかというと、「御遷化記録」の「定」にあるとおり、弘安5(1282)108日に「六老僧」を決めたということだ。

さらにもうひとつあって、その「六老僧」の中に、阿闍梨号がある人とない人がいる。ということは、阿闍梨号を持っている日昭、日朗、日興、日持の四老僧は、阿闍梨号のない日向、日頂よりも上ということになる。そうすると「二箇相承」「唯授一人血脈相承」の真偽と関係してくるのは、日昭、日朗、日興、日持の四老僧で、「誰が僧階最上位だったのか」ということになる。日興が「二箇相承」で「本門弘通の大導師」「身延山久遠寺の別当」に任命されていたとするならば、当然のことながら、日興が日蓮の葬列の大導師、法席最上位、僧階最上位になっていなくてはならない。

 

 

□日蓮葬送の儀式の大導師は白蓮阿闍梨日興ではなく法臘最上位の弁阿闍梨日昭だった

 

葬列の導師は誰かを判定するものとしては、葬列の法席を見ればいいわけである。つまり日蓮の葬列の前陣、後陣が誰かをみれば導師は誰かがわかる。それを見るならば、前陣=日朗、後陣=日昭となっていて、少なくとも日興は、前陣でも後陣でもない。しかも日昭、日朗よりも葬列の法席が下位になっている。ということは、日興は少なくとも日蓮の葬列の大導師ではないということだ。

日蓮遷化記録(日蓮宗学全書)1


日蓮遷化記録(日蓮宗学全書)2


日蓮遷化記録(日蓮宗学全書)3
 

(「日蓮宗宗学全書」2巻に収録されている日興筆「日蓮遷化記録」)


日蓮遷化記録4
 

 (「日蓮遷化記録」に書いてある1282(弘安5)1014日の日蓮葬送の儀式)

ということは、日興は「本門弘通の大導師」でもなければ「身延山久遠寺の別当」でもなかったということで、すなわち「二箇相承」「唯授一人血脈相承」なるものは後世の偽作ということになる。公正な道理から判定すれば、このように「二箇相承」「唯授一人血脈相承」なるものは、当然の帰結として後世の偽作であるという結論に行き着くということなのである。最後に「大導師は日昭か日朗か」と言うと、これは当然のことながら、「法臘」最上位の日昭ということに普通に結論が帰結するということになる。ただしここで誤解のないように付記しておくが、「法臘」最上位の日昭が日蓮葬送の大導師を務めたと言っているのは、身延山久遠寺第二祖は日昭だったと言っているのではない。身延山久遠寺第二祖は、正応元年(1288)の日蓮七回忌のとき、南部実長の要請によって佐渡阿闍梨日向が身延山久遠寺の二祖として法灯を継承したのである。南部実長は、厳格な性格で何かと衝突していた日興を拒否し、日向を身延山久遠寺二祖として要請したのである。

日蓮葬送の儀が行われたのは弘安五年(1282)のことであり、「二箇相承」「唯授一人血脈相承」がその時に本当に存在していて、日蓮から日興への血脈相承が本当になされていたならば、日蓮葬送の儀は、日興の大導師でなされていなければならないはずだが、そのようにはなっていない。日興は、日蓮葬送の儀では、前陣でも後陣でもない、日昭、日朗よりも葬列の法席が下位になっている。日興が日蓮から「本門弘通の大導師」「身延山久遠寺の別当」に任命されていたならば、「定」の最上位にランクされ、日蓮の葬儀の大導師を勤めたはずである。日興の法席が日昭、日朗の法席よりも下位になるなどということは絶対に有り得ない。これは「日蓮遷化記録」を執筆した日興自身が書き記していることで、四老僧の加判もある。これからしても「二箇相承」は、弘安五年(1282)当時には全く存在しておらず、後世の偽作であることが、明らかであるわけである。

要山13日震書写の二箇相承(諸記録)
 

(能勢順道氏編纂『諸記録』第4部に載っている京都要法寺13祖日辰書写「二箇相承」)

大石寺14日主書写二箇相承(諸記録)
 

(能勢順道氏編纂『諸記録』第4部に載っている大石寺14世日主書写「二箇相承」)

北山9日出書写二箇相承(諸記録)
 

(能勢順道氏編纂『諸記録』第4部に載っている北山本門寺9代日出書写「二箇相承」)

北山11日健書写二箇相承(諸記録)
 

(能勢順道氏編纂『諸記録』第4部に載っている北山本門寺11代日健書写「二箇相承」)

二箇相承3
 

(1970年刊『仏教哲学大辞典』に載っている『二箇相承』