■検証13・日興が身延山久遠寺第二祖貫首に登座した史実は存在しない6

 

日蓮が定めた本弟子六人(六老僧)の「定」と矛盾する「二箇相承」「血脈相承」

 

「二箇相承」「唯授一人血脈相承」は、1282(弘安5)108日、日蓮が入滅の直前に制定した本弟子六人(六老僧)の「定」と明らかに矛盾するものである。日興が執筆した 「宗祖御遷化記録」によると、「定」は六人面々に帯するべしとして、日持、日頂、日向、日興、日朗、日昭と入門・法臘の浅い者からつらね、この本弟子六人は序列なく「不次第」であると、日蓮が定めているのである。この「宗祖御遷化記録」は、日興真筆が現存しており、富士門流八本山のひとつ・西山本門寺に格蔵されている。日蓮正宗大石寺が発刊している「御書全集」にも、日興が執筆した 「宗祖御遷化記録」を載せており、しかもその中には「定」も掲載されている。

「弘安五年壬午九月十八日 武州池上に入御 地頭衛門大夫宗仲  同十月八日 本弟子六人を定め置かる 此の状六人面々に帯すべし云々日興一筆なり  定

一弟子六人の事 不次第

一、 蓮華阿闍梨 日持

一、 伊与公 日頂

一、 佐土公 日向

一、 白蓮阿闍梨 日興

一、 大国阿闍梨 日朗

一、 弁阿闍梨 日昭

右六人は本弟子なり、仍って向後の為に定むる所、件の如し。弘安五年十月八日 」

御遷化記録(御書全集)1


御遷化記録(御書全集)2


御遷化記録(御書全集)3
 

(日蓮正宗大石寺発刊「御書全集」p18631864)

日蓮遷化記録(日蓮宗学全書)1


日蓮遷化記録(日蓮宗学全書)2


日蓮遷化記録(日蓮宗学全書)3


 

(「日蓮宗宗学全書」2巻に収録されている日興筆「日蓮遷化記録」)

もし日興が日蓮から血脈付法の法主・身延山久遠寺第二祖であると指名されたならば、その付法は日蓮一期弘法付嘱書によれば、すでに1282(弘安5)9月に行われているのであり、「定」の序列を「不次第」とする必要はなく最上位に置かねばならないはずである。にもかかわらず、それがなされていないという根本的な矛盾がある。しかしこの「定」がニセ物ということはありえない。日興真筆の「御遷化記録」は今に伝わり、現在、西山本門寺に格蔵されている。1282(弘安5)9月に日蓮が本当に日興に血脈相承していたならば、翌108日に本弟子六人の序列を「不次第」と定めることなど、有り得ない。さらに一旦、本弟子六人の序列を「不次第」と定めておきながら、日蓮入滅の直前に日興を再び身延山久遠寺の別当に任命するなど、絶対に有り得ないことだ。こんなに矛盾した話しはない。こうしたことからも、「二箇相承」「唯授一人血脈相承」が後世の偽作である偽書であると断定できる。

 

 

□「定」と「二箇相承」の矛盾を歴史上最初に言及した京都要法寺十三祖貫首・広蔵院日辰

 

「二箇相承」なる文書が、日蓮が六老僧を定めた「定」と根本的に矛盾していることについて、最初に言及した人物は、京都要法寺十三祖貫首・広蔵院日辰である。日辰は著書「祖師伝」の「日興伝」の中で、「御遷化記録」を「御遺言の置状」として引用しているが、日蓮が日興に血脈相承をしたと称する「二箇相承」については、一言も言及していない。「祖師伝」には、次のようにある。

「第九年弘安五壬午年九月十二日に身延山を出で武州池上兵衛允宗長が家に移る。十月十三日御遷化なり。御遺言の置状、御遷化記録と名く 執筆日興なり。日昭日朗日興日向の四人の裏判之れ有り。此の正文は日興御付法の日代の御相続にして今 永禄二巳未年西山本門寺に之れ有り」(堀日亨編纂『富士宗学要集』5p20)

祖師伝・日辰二箇相承不審1


祖師伝・日辰二箇相承不審2
 

これが広蔵院日辰の著書「祖師伝」の「日興伝」からの引用である。広蔵院日辰は、「日蓮伝」にも「日興伝」にも、どこにも「二箇相承」について引用もしていなければ、言及もしていない。広蔵院日辰が、日蓮、日興、日目、日尊門流の諸師の伝記をまとめた「祖師伝」の中で、「御遷化記録」のみ引用して、「二箇相承」には全く触れていないというのは、根本的に矛盾した話しである。

広蔵院日辰が著書「祖師伝」を清書・完成させたのは1560(永禄3)117日のこと。

広蔵院日辰が北山本門寺で「二箇相承」の正本と称するもの(「二箇相承」の重須本)を臨写したのは1556(弘治2)77日のこと。つまり日辰が「祖師伝」を完成させる4年前に、すでに北山本門寺で「二箇相承」の正本と称する文書を臨写していた。したがって、広蔵院日辰が著書「祖師伝」を清書・完成させた1560(永禄3)117日の時点で、「二箇相承」は知っていたことになる。

京都要法寺十八祖・日陽が1617(元和3)年に北山本門寺に参詣して「二箇相承」を拝しているが、これについて「祖師伝付録」で、

「二箇御相承是は日辰上人御正筆御拝覧の時点画少しも違わず書写して今本寺に在り」(堀日亨編纂『富士宗学要集』5p60)

 

と書いており、日辰が北山本門寺で「二箇相承」を書写したときは「正筆」だと言っている。これがなぜ「祖師伝」の中で、「御遷化記録」のみ引用して、「二箇相承」には全く触れていないのか。

それは、「二箇相承」の内容が「御遷化記録」の「定」と矛盾しており、日辰も「御遷化記録」の「定」を「正」と認識していたということに他ならない。つまり「二箇相承」の内容に対する不審の表明である。ではなぜ日辰は「祖師伝」の中で、「二箇相承」の内容について、はっきりと不審点を書かなかったのか、ということになるが、第一に日辰自身が日興門流であること。第二に日辰が「二箇相承」を書写した北山本門寺が日辰と良好な関係にあったこと等を勘案すれば、日辰が著書の中ではっきりと「二箇相承」の内容にはっきりと不審点を書けるわけがない。当然であろう。

つまり「祖師伝」の中で、「御遷化記録」のみ引用して「二箇相承」には全く触れていないのは、「二箇相承」に対する不審の表明であり、これが歴史上最初の「定」と「二箇相承」の矛盾に対する言及なのである。

要山13日震書写の二箇相承(諸記録)
 

(能勢順道氏編纂『諸記録』第4部に載っている京都要法寺13祖日辰書写「二箇相承」)

大石寺14日主書写二箇相承(諸記録)
 

(能勢順道氏編纂『諸記録』第4部に載っている大石寺14世日主書写「二箇相承」)

北山9日出書写二箇相承(諸記録)
 

(能勢順道氏編纂『諸記録』第4部に載っている北山本門寺9代日出書写「二箇相承」)

北山11日健書写二箇相承(諸記録)
 

(能勢順道氏編纂『諸記録』第4部に載っている北山本門寺11代日健書写「二箇相承」)


二箇相承3
 

(1970年刊『仏教哲学大辞典』に載っている『二箇相承』